核時代のテクノロジー論
著 者:森一郎
出版社:現代書館
ISBN13:978-4-7684-1019-6

ハイデガー哲学の大きな現代的意義を照らし出す

秋富克哉 / 京都工芸繊維大学大学院教授・哲学
週刊読書人2020年6月26日号(3345号)


二〇一九年の三月、『技術とは何だろうか』という表題のもと、森一郎氏による編訳書が講談社学術文庫として出版され、ハイデガーの三つの講演が紹介された。関口浩氏による『技術への問い』(平凡社、二〇〇九年、二〇一三年)と合わせて、私が日頃から信頼を寄せる二人のハイデガー研究者のすぐれた訳と解説により、ハイデガーの技術思想がいっそう広く一般読者の目に触れるようになったことは、同じ主題に関心を寄せる者として、この上なく喜ばしい。そしてその森氏が今度は、同じ主題を一般向けシリーズの書物として発表された。さらなる慶賀であり、氏の旺盛な執筆活動には、改めて敬意を表したい。
 
早くから優れたハイデガー研究者であった森氏であるが、現実社会に対する強い関心は、狭いアカデミズム研究の枠に収まることを許さず、前任校では学内の歴史的建造物の保存をめぐる論争に積極的に関与、その後拠点を仙台に移してからは、三・一一の爪痕残る地で原子力の問題に切り込み、今は市内の歴史的建造物の保存問題に取り組まれている。本書でも触れられているこれらの事象は、決して本題に対する事例や付録ではなく、氏の日常がハイデガー哲学への取り組みと一つになっていることの証でもある。われわれの生活に直結する格好の主題を得たことで、歯切れ良い森節は本書でますます冴え渡り、時として熟成の趣さえ感じさせると言えよう。
 
本書は、主要部六章を序章と終章で挟む構成で、序章で全体の見通しを示した後、第1章では、ハイデガーにおいて技術(テクネー)が問題になる背景を前期のアリストテレス解釈で押さえ、続いて、先述の編訳書に収められた三つの講演「物」(第2章)、「建てること、住むこと、考えること」(第3章)、「技術とは何だろうか」(第4、5章)を、成立事情や他の関連テキストにも言及しながら順次解釈、第6章と終章では、ハイデガーの技術論を通り抜けてなお残る現代的課題とそれらへの応答を、森氏特有の姿勢とも言うべき、アーレントの視点を交えた考察で締め括っている。
 
各章は、よく考えられた注とともにそれぞれ興味深い論点を含むが、第4章では、論考「技術とは何だろうか」と、その背景となったブレーメン講演中「物」に続く三講演「総かり立て体制」、「危機」、「転回」との違いに言及、専門研究にとって貴重な目配せも忘れていない。
 
圧巻は、ハイデガー技術論の射程に関わる第5、第6、終章であろう。巨大化した技術世界にあって、ではわれわれはどのようにあるべきかという、今日ますます焦眉のこの問題をハイデガー哲学の中にいかに読み取るかは、ハイデガー解釈の最大の課題である。
 
この課題に対し、森氏もまた、ハイデガーがヘルダーリンの詩句から取り出す語「だが、危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ」をもとに考察を加える。「救いとなるもの」とは何か、「転回」とは何かをめぐって、芸術や詩作、物と「四方界」の世界、「放下した平静さ」、これらいくつかの主要テクストにわたる思想を全体としてどのように連関づけるかは、現代世界に向けての課題でもあり、氏の考察も熱を帯びていく。
 
ただ、芸術や詩作については、森氏自身が現代大衆社会の芸術や詩に懐疑的なことから、むしろ別の「「転回」の可能性」を探ってゆく。たしかに、それらに「一発逆転の「転回」」は望めないであろう。しかし、氏が重視する物や世界への「労わり(ケア)」、建築論で取り出される「住むこと」、ハイデガーが芸術や詩作に見ようとしたのは、まさにこのようなことではなかったか。 
 
紙数も尽きてきたが、科学、芸術、政治、国家、労働、大学等種々の主題を取り込んで成り立つハイデガーのテクノロジー論は、ハイデガー哲学が現代世界に対して持つ大きな意義を示すものであろう。残念ながらその意義がほぼ省みられなくなった本国ドイツに対し、今や世界最大のハイデガー研究国の我が国で、その意義を照らし出す本書が広く読まれることを願って止まない。(あきとみ・かつや=京都工芸繊維大学大学院教授・哲学)
 
★もり・いちろう=東北大学大学院教授・近現代哲学史。東京大学大学院博士課程中退。著書に『死と誕生』『死を超えるもの』など。一九六二年生。