舞台
著 者:西加奈子
出版社:講談社
ISBN13:978-4-06-293582-1

舞台

書評キャンパス―大学生がススメる本―

生天目咲樹 / 上智大学文学部二年
週刊読書人2020年7月3日号(3346号)


ひとりでカフェに入るも周りの視線が気になり、一刻も早く店を出ようとアイスコーヒーを一気飲みしてお腹を痛めた昨日の私、バンザイ。急げば間に合うのに、必死で走っている姿を他人に見られるのが嫌で、乗るべき電車を見送ってしまった私、バンザイ。本書は、自意識過剰な、それゆえに愛おしい現代人のための〝わたし賛歌〟である。
 
主人公の葉太は二十九歳。裕福な家に生まれ、容姿にも恵まれ、学生時代にはいわば上位カーストに位置していた、圧倒的勝ち組。と、思いきや、人知れぬ悩みに日々苛まれていた。〝らしさ〟への恥。そしてそれゆえに、人生をまるごしで生きられない自分に対する嫌悪である。
 
葉太が六歳のときに死んだ祖父の葬式では、泣いている自分の孫〝らしい〟振舞いに自己陶酔。しかし父親のサングラス越しの冷たい視線に、強烈な羞恥と罪悪感と、のちに父への憎しみをおぼえる。
 
物語の舞台であるニューヨークでは、アメリカンブレックファストの店に入って高いのに不味い、とイラつく。先ほどまで「これこそアメリカだ!」と、自身の選択に悦にいっていたが、それがまさに観光客〝らしい〟はしゃぎっぷりだと気づき、恥ずかしさで思わず声をあげそうになる。セントラルパークでは人懐っこいレトリバーに押し倒されて、やれやれと善良な市民〝らしい〟態度。その直後、突然バッグをひったくられるも油断していた自分を認めるのが恥ずかしく、ニヤニヤ笑うばかりで、追うこともできない。パスポートも財布も失い、あるのはポケットの十数ドルのみ。結局、初めての旅行先で極貧の生活を迫られることになる。
 
調子に乗ったら不幸な目に遭う。反省して慎重に過ごすがそれも束の間、突然のハッピーに舞い上がってまた災難。葉太の人生はその繰り返しで、ニューヨーク滞在中もそれを象徴するかのような出来事が立て続けに起きる。読者のわたしはそんな彼をバカバカしいと笑う。しかし、ここで本当に笑っているのは、主人公によく似た自身の姿なのだ。その笑いは、物語が進んで葉太の苦しみを知るにつれ、乾ききった嘲笑から、心の奥底から染みだす同情の微笑みに変わっていく。
 
そして物語の中盤以降、ほとんど全てを失った葉太は死の恐怖に喘ぎながら、つまらない恥の意識に囚われてきた自分の人生に対する激しい嫌悪の情に苦しむ。死ぬことが「怖い!」と思わず叫んで走り出した彼を見るのは、現実に街の中を歩いている観光客だけではない。死者の亡霊が、輝かしい生の中を真剣に生きられない彼に非難の目を向けている。その中に、父の姿もある。あるべき姿を演じ続けて死んでいった父の声は、「その苦しみは、お前だけのものなんだ」と葉太に語りかける。走り続ける葉太は肉体も精神もボロボロになりながら、ひとつの真実に辿り着く。人がなにかを演じるとき、そこには他人への思いやりがある。そこに、誰にも理解されない苦しみがあろうと、自分のものとして引き受けなければいけない。それこそが、父の亡霊が語る言葉の意味であり、彼の生前の人生のありかただったのだ。
 
それに気づいた葉太は、「俺の」苦しみを背負っていく覚悟を決める。そのとき初めて、あんなにも不味かったアメリカンブレックファストが、涙が出るほど美味く感じられたのだ。
 
激しい崩壊の中から、再び新しい自己を生み出していく葉太の姿は泥臭いが、どこか眩しい一瞬の生の炎を見せる。そして自己嫌悪に悩みながらも、変化を恐れて踏みとどまってしまうわたし自身を励ましてくれる。また、人は誰しも誰かのために、自分を演じて生きているという物語のメッセージは、自意識過剰なわたしを肯定すると共に、全力で生きている他者の持つ苦しみを想像させる契機となる。つまり、わたし賛歌があなた賛歌に、そしてみんな賛歌に変わっていく。そう、この物語はまさに現代の人間賛歌なのである。

★なまため・さき=上智大学文学部2年。演劇やお笑いを観るのが好き。自分でも会話劇を作っています。