もう一つ上の日本史 『日本国紀』読書ノート 古代~近世篇
著 者:浮世博史
出版社:幻戯書房
ISBN13:978-4-86488-191-3

『日本国記』を検証する労作

歴史修正主義に対するワクチンは現状に抗しきれるのか

藤田直哉 / 批評家
週刊読書人2020年7月3日号(3346号)


ベストセラー作家の百田尚樹が、『日本国紀』という「日本通史」を二〇一八年に刊行した。この本は、安倍晋三首相が購入し、SNSで写真付きで紹介した本である。安倍首相と百田尚樹は『WiLL』で対談したほか、百田曰く、月に一度ほど電話する仲で、政治思想も近しい。
 
『日本国紀』は発表当初から、非常に議論を呼んでいた。『日本国紀』の特徴は、歴史は「ストーリー」であると宣言していることにある。つまり「歴史」とは、実証主義的な事実の集積である以上に、「日本」「日本人」を意味付けしアイデンティティを与える装置(=物語)であるべきだ(そっちの方こそが必要だ、有益だ)と考えている節がある。筆者は杉田俊介と共著『百田尚樹をぜんぶ読む』を刊行したが、そのときに読んだ経験からして、百田が、日本人を元気づけ、活力を持って前向きにしていくことに純粋な使命感を持っていることは確かだと思う。
 
百田は、不況になり、災害も連続し、不安になって自信を失っている日本に対して心からの善意で「自己啓発」的な「物語」を提示している。その実証主義的な歴史の否定は、戦前の「皇国史観」を思い起こさせる。戦前の日本は、現実や事実を無視し、非論理的行動を行ったが、そこに「日本は神の国だ」的な現実離れした思い上がりや「皇国史観」が影響したことは否めないだろう。
 
このように、事実や論理よりも、アイデンティティや気分を重視する時代になっている。この時代に行われる政治をアイデンティティ政治と呼ぶ。この状況そのものを「ポスト・トゥルース」と呼ぶこともある。日本だけではない、世界的な現象である。
 
浮世博史は、この状況に介入するために、『日本国記』の記述を逐一検証する一〇〇〇頁近い大作をものにした。背景にあるのは、実証主義を重視しようとする立場だ。教科書は、細かい一つの記述であっても、入念に検証されるし、その根拠となる歴史学は、多くの人々の長い長い学問的な営みの蓄積したものである。この「社会科学としての歴史学」を重視する立場を浮世は採る。それは、当たり前のことのようだが、現在では、一つの反時代的な思想的・政治的立場になってしまう。
 
浮世のもう一つの戦術は、陰謀論的な構図の解体である。『日本国紀』は「教科書が教えない」が、本当はこうだ、日教組や朝日新聞が洗脳しているが、戦後日本の真実はこうだ、という提示の仕方をしている。同様の構図を持つ「マスコミが言わない真実」などの話法は、ネットの人たちを「釣る」典型的な話法になっている。浮世は、そのような煽情的な話法に対して、「教科書に載っている」とひたすら示し水を掛けていく。 
 
『日本国紀』を斬った返す刀で、おそらく読み手の頭の中にもある「俗説」も斬られていく。まことしやかに真実のようにネットなど様々なところで語られる「小ネタ」について、根拠のある別種の見解を得られる辞典のようにも本書は使えるだろう。
 
率直に反省させられたのは、やはり自分の歴史認識も、多くのフィクションによって形成されていた、ということだった。司馬遼太郎の物語や、様々な第二次世界大戦を描いたフィクションによって、ぼくは歴史の事実を知った気になり、イメージを抱き、それに基づいて「良し悪し」の判断をしてしまっているだろう。もちろん、それこそがフィクションの力なのだが、その大きな影響を痛感させられ反省させられた。
 
本書は大変重要な労作であり、歴史修正主義に対するワクチンとして多くの人が手元に置いておくといい本だ。しかし、現状を思うと、いささか心細い気持ちも覚える。「学問ではこう」「それは論理的におかしい」「事実ではない」という指摘に「だからどうした」と答え、気持ちのいい「物語」で構わないと感じている人々が増大していくという状況そのものに、この戦略で抗しきれるのだろうか。(ふじた・なおや=批評家)
 
★うきよ・ひろし=奈良県北葛城郡河合町の私立西大和学園中学校・高等学校社会科教諭。塾講師として二十年近く中学受験・高校受験の指導にあたった後、大阪市天王寺区の私立四天王寺中学校・高等学校社会科主任をへて現職。