晩年のスタイル 老いを書く、老いて書く
著 者:磯崎康太郎
出版社:松籟社
ISBN13:978-4-87984-385-2

文学における絶対的な老いと若さ

多面的な視点からその意義を再認する

大宮勘一郎 / 東京大学教授・ドイツ文学
週刊読書人2020年7月3日号(3346号)


老いと文学は切っても切れない関係にある。若年の書き手による、若々しさだけが取り柄のような作品にでさえ、老いは浸潤する。奇妙な言い方だが、老いは「不在」のままに、やまず忍び込むのだ。若さとはむしろ、老いを呑み込もうとする無自覚的な力のことかもしれない。そして老いは呑み込まれながらも、あるいは呑み込まれるがゆえに、若さを内側から破壊する。すると若さは老いに対して必敗であるかのようだが、必ずしもそうではない。例えば年配の作家による枯淡の境地と評される作品が、不意の瑞々しさを湛えることもある。これを老いへの抵抗と呼んではおよそ見当違いの侮辱となろうが、年少であることが老いとの隔絶を意味しないように、高齢も若さを排除しない。若さと老いの関係は複雑であり、ゆえに多くの文学はこの関係に惹きつけられ、作家個人の実感や実体験を超えた水準でこれを描き出してきた。そうした場合の若さと老いは、相対的なものではなく、それぞれが絶対的なもの同士としてぶつかり合い、そして突如互いが互いに乗り移ってしまいさえする。かつてベンヤミンがプルーストの長編小説における回想という主題=方法を「老いと若返りの弁証法」と呼んだとき、彼の念頭にあったのはこうした絶対的な老いであり若さであった。
 
ドイツ文学者による7章にフランス文学・文化研究の論考を交えた8章から構成され、およそ各論の対象の時代順に配列されている本書からは、キケロー的な老いの権威礼賛からも老醜のリアリズムからも距離を取ろうとする右記のような問題意識が読み取れる。序章に言及されるアドルノが、ベンヤミンを引き取りつつベートーヴェンの後期ソナタに認めたものは、若さという主観による造形が老いという客観に内側から粉砕された、破局(カタストロフィー)的様式と言い換えられるだろう。ここに遠ざかる若さを見遣るのは、アドルノ一流のメランコリックな眼差しで、これが彼の哲学的批評に情緒的残り香を添える。他方、同じこの作品にサイードは、全く逆のもの、すなわち様式化を拒絶する主観の若々しい能動性、言わば老いを内破する疾風怒濤を認める。
 
中世における老年像の変容と信仰の関係を論じる第1章では、老いの不安が自立的個人の形成と表裏をなすものと論じられ、ゲーテ後期の作品を扱う第2章は、この詩人にとっては自らの経験する老いもまた、諦念や自棄をもたらすどころか、旺盛な知的関心の対象であり実験的制作の素材であったことを教える。一九世紀ドイツ文芸の世代交代を論じる第3章は、流謫の神々におのれを寄せるハイネの「老いの戦略」と、「若きドイツ」の盟主グツコーが、まさにその若々しさの持続ゆえに、次の世代からは老残として指弾される逆説とを描き出す。第4章で論じられるシュティフターは、若い頃から老いを主題にしてきたが、観念上の老いと現実の老いとがようやく出会う時期に、若さと老いの和解の可能性を思い描き始めたという。逆に老年を迎えることなく病没したカフカを論じる第5章によれば、時間と時代への抵抗を貫いたがゆえに、彼の世界は老いと若さを特異な時へとショートさせるのである。第6章では、ドイツ市民社会の野辺送りのような作品を繰り返し世に問うた「晩年」の作家トーマス・マンが論じられる。序章と架橋するなら、その彼がアドルノの音楽論に感銘を受けつつも、破局へと身を投じて老いの客観性の拘束を受け容れるような「ドイツ的」主観の可能性を『ファウスト博士』のなかで若き主人公に託しているのだった。第7章は、マティス、ピカソ、フジタ、そしてコクトーといったモダニズムの画家たちが、晩年に教会装飾を手がけたことの意味を「不滅」への希求という観点から論じている。第8章では、長く「ジプシー」と呼ばれてきたロマの人々が、積極的なアイデンティティを持続的に物語る伝統を持たなかったゆえに、生活圏を狭められてゆく中で民族としての老いに直面していることが報告される。老いというものを多様な視点から再度検討する本書の試みは、文芸という、老いと若さを交錯させる文化技術の意義を再認するためにも重要なものである。(香田芳樹・磯崎康太郎・山本賀代・西尾宇広・川島隆・坂本彩希絵・松田和之・野端聡美執筆)(おおみや・かんいちろう=東京大学教授・ドイツ文学)
 
★いそざき・こうたろう=福井大学国際地域学部准教授。訳書にアーダルベルト・シュティフター『シュティフター・コレクション4』、アライダ・アスマン『記憶のなかの歴史』など。