スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦
著 者:佐藤哲朗
出版社:河出書房新社
ISBN13:978-4-309-02879-8

スパイ事件の本質を丹念に探り出す

証拠不在、米ソの思惑が絡む闇の中から

吉田一彦 / 神戸大学名誉教授・情報論
週刊読書人2020年7月17日号(3348号)


今から六七年前のことになるが、日本がまだアメリカの占領下にあった時に起きた事件である。その一九五三年八月二日に、戦後日本の最北端である北海道宗谷沿岸の宗谷村(現在の稚内)に一人の男がゴムボートで上陸してきた。着衣から靴までずぶ濡れで、不審な挙動と所持品からまっとうな人間とは思われない。
 
彼はその日のうちに警察に身柄を確保されるが、どのような罪科を問えばよいかまるで不明である。証拠もなければ,逮捕の根拠さえ定かではない。それでも一応の身元は判明した。名前は関三次郎(当時五一歳)で余市生まれ。日本海にある利尻島で育ち、その後は旧樺太(現サハリン)で生活していたと言うが、何をしていたかは定かではない。どうやら利尻島で漁をしていた時に船の転覆事故で行方不明になり、その後に家族から失踪届が出されて失踪宣告を受け、無国籍になっていた。
 
事の次第らしき筋書きは、関が樺太にいる時にソ連側から執拗にスパイになるように説得され、結局それに応じてスパイ教育を受けた後に日本潜入の任務を与えられ、スパイ用具の届け役にされたということである。
 
関が身柄を拘束されてから一週間後の八月八日の夜半に宗谷沖オホーツク海で、日本の巡視船「ふじ」が日本の領海内でソ連の巡視船「ラズエズノイ号」を捕獲した。関を迎えにやって来たものと思われた。稚内港に曳航されたソ連船からはクリコフ船長以下四人が出入国管理法違反で逮捕された。
 
旭川地検は逮捕から二三日目の八月二五日に、関を外国為替法及び外国貿易管理法、並びに出入国管理法違反容疑で起訴することにした。しかし検察当局を困惑させたのは、関の自供の他には何一つ物的証拠がないのである。結局のところ、旭川地裁は関に懲役一年(執行猶予二年)の判決を言い渡した。しかしこれで一件落着とはいかないのが本件の難物たる所以である。
 
敗戦直後に日本に上陸したGHQ(連合軍司令部)と共に日本にやって来たのはCIC(米陸軍防諜部)で、表向きはGHQ・G2(参謀部第2部)の指揮下で「米陸軍の機密保持」を担当することになっていたが、実際は占領下の日本でスパイ活動と政治工作に当たっていた。
 
北海道に進駐してきたアメリカ軍は第九軍団第七七師団で、第一陣は一九四五年一〇月四日、バーネル少将指揮の四千人が函館に上陸し、翌五日には八千人が小樽に上陸し、札幌へもその日のうちに進駐している。
 
CICは引き揚げ者らからソ連関連の情報を聴取し、生活に困窮した引き揚げ者には格別の待遇を用意して工作員になるように説得し、然るべき教育を施した上で、サハリンに逆送するなどの工作を画策していた。関はその一人だったのである。
 
国警は当初、関はソ連の秘密警察であるKGB(国家保安委員会)のスパイとして日本に来たものと判断したが、しかし関をソ連占領下の海馬島(現在のモネロン島)から礼文島まで運んだのは日本漁船だった。海馬島にCICの拠点があるのは、外事・公安の常識であり、事件はCICが仕立てた謀略であると見るのが妥当である。
 
CICは用意した漁船に関を乗せて礼文島を出航し、宗谷海峡を迂回してオホーツク海を南下して、猿払村にある知来別の近辺に上陸させる手はずであった。ところが思いがけぬ手違いが発生して、関は稚内に行ってしまったのである。
 
その結果、CICとしては失敗を挽回して面目を保たねばならなくなった。そこで編み出されたのが、事件はKGBの企てたスパイ工作だと世間に知らしめることだった。そしてその内に稚内署は捜査全体から閉め出され、調書や捜査報告書なども用なしとされて表に出ることはなかった。関が亡くなったのは一九七八年九月二日、死因は老衰によるもので享年七六であった。
 
このいったんは闇に葬られたかに見えた複雑で種々の思惑が絡み合った事件の全貌を解き明かすために、丹念に関係者を探し出し、足でもって本質を探り出した著者の努力は並大抵のものではない。久方ぶりに見た類い稀な労作である。著者の労を多としたい。(よしだ・かずひこ=神戸大学名誉教授・情報論)
 
★さとう・てつお=元毎日新聞編集委員。北海道支社勤務時に「恵庭事件」、「長沼ナイキ基地訴訟」、札幌医科大学の「心臓移植事件」などを取材。東京社会部では「早稲田大学商学部入試問題漏洩事件」をスクープ、取材グループで新聞協会賞(一九八〇年度)受賞。一九三九年生。