遅いインターネット
著 者:宇野常寛
出版社:幻冬舎
ISBN13:978-4-344-03576-8

いまこそ〝流されない〟インターネットを

図書館発!こんな本が面白い【書評提供:図書館流通センター(TRC)】

石黒充 / TRC 電算室
週刊読書人2020年7月24日号(3349号)


――コロナ以前に書かれた社会評論に読む価値を見いだせるのか――図書館が休館し大型書店が休業するなか、かろうじて扉を開いていた地元の小書店の平台。そこに積まれた本書を前にして迷っていた。価値観が根底から覆った社会。人とのつながりをネットに依存せざるをえない社会。その前に書かれた視点や提言をはたして額面どおりに受け取ることができるのだろうか。とはいえタイトルにはインターネットとある。必然的に、コロナ後の社会を対比しつつ読みすすめていくほかはない。
 
序章。令和を迎えてふりかえる平成期は、政治の改革に失敗し、経済の改革に失敗した30年間だったと看破する。グローバル化に対応するために、ある種の選択、トリアージをすることが政治の本質であったはずなのに、既得権の保護、逆に言えば防波堤の役割、そのどちらをも果たしきれずに失敗したとする。このことは、感染症への対策が、本質的に社会全体へのトリアージであるのにもかかわらず、直接の感染者や生死だけにフォーカスし、施策とは呼べない施策が繰り出されていた現状に通じる。
 
1章。トランプ就任とブレグジットは「境界のある世界」と「境界のない世界」の対比だとし、ネット監視の強化である「デジタル・レーニン主義」の台頭も、既存の民主主義的枠組みの限界だと説く。それは、強固なロックダウンを望んでしまう思考にも通じるものだし、管理社会を希求してしまう営みと、管理国家だからこそ封じ込めに成功したと評価してしまう姿勢を、暗示していたともいえる。ここで、民主主義をどうしていくべきかという処方箋に、よいメディアを作るべきと説く。そしてそれは、いまさらながらの「インターネット」だというのだ。
 
2章。20世紀は映像の世紀だった。それは他人の物語を消費する時代。そして21世紀はネットの世紀。ポケモンGOなど、体験を自分の物語として消費する世紀とする。この対比軸に加えて、「日常」と「非日常」の対比軸を持ち込んで4つの象限に分割してみせる。これまで「非日常」だった選挙への動員のツールとしてのネット。反射的に「いいね」と反応するだけのネット。それはポピュリズムに使われていただけとする。それを「日常」へ引き戻すために「速度」を遅くしたいという。このように、いい見立てが提示されたら、それだけで評論としてまっとうだなと思う。
 
ところで、著者はすでに「遅いインターネット」というWebコラムサイトを創設している。その中で、コロナ後に本書の主張を敷衍した一文が載せられているのに気づいた。また、本書で何度も出てくる「距離感と進入速度」という語が、序文としてのコラムで説明的に表現されていることを付言しておく。
 
3章で、吉本隆明から糸井重里への論考となる。著者が作るのはかつての「ほぼ日」のようなWebサイトなのか。「遅い」とは、単に反射的な対応でなく、熟慮するに足る長文を載せるメディアをつくるのだ、という主張なのか。そう早合点してしまうところだが、終章。「遅い」は前提にすぎない。自分自身で情報への距離感と進入速度を調整できる自由が前提。そのうえで、議論を前に進めるために発信すること、すなわち「書く」行為を奨励していくのだという。
 
タイムラインを眺めてYES・NOを発信するだけでなく、じっくりと「読む」ために、自分の物語とするために「書く」。その行為を日常にすることで、批評につなげていきたいのだ。それが著者の言う「遅いインターネット」なのだろう。
 
図書館においてもコロナ禍の影響を大きく受けた。施設休業要請が出されガイドラインが出され翻弄されつつも、必死に対応し工夫で乗り越えている声を聞いた。そんな中で、もちろん、今後の図書館のありかたをリ・デザインしようという動きも耳にする。人が集まる場としての設計は再考され、非対面電子化の流れは当然としても、本書で書かれている「遅い」メディアとしての価値、ここでいうなら「書く」ことで、情報の先につながる場。そうした視点をも含んで、考えられたいと願う。