エゴ・ドキュメントの歴史学
著 者:長谷川貴彦
出版社:岩波書店
ISBN13:978-4-00-022303-4

「普通の個人」の語りから、歴史学を模索する

抑圧下で書き綴った文章を読み解く

槇原茂 / 島根大学教育学部教授・フランス革命以降の近代史・社会史
週刊読書人2020年7月24日号(3349号)


今日の歴史学におけるグローバルヒストリーの隆盛についてはよく知られている。他方で、よりミクロな視角による歴史へのアプローチについてはさほど明確な方向性が示されているわけではない。後者はとくに、二〇世紀後半に社会史や文化史が切り拓いた豊かな歴史世界をどのように継承し、新たに展開させていくかという課題にも関わっている。言語論的転回、文化論的転回、空間論的転回などを複合的に経由しながら、歴史学の新たな展開が模索されてきたといえようか。本書の編者である長谷川貴彦は、そのような現代歴史学の課題にもっとも自覚的に取り組んできた歴史家の一人である。本書は、長谷川が、日本史や西洋史の第一線で活躍してきた歴史家たちとともに、過去に生きた「普通の個人」の語りを通して、歴史学の新たな可能性を開示してくれた作品と言えるだろう。
 
本書には、大きく分ければ、三つのタイプの論考が収められている。一つは、論集の共通テーマであるエゴ・ドキュメント論、個人の語りが記録された史料の生産、収集、保存、活用について論じた諸論考である。まず、エゴ・ドキュメントの研究史をたどり、近年の歴史学における主体の復権の動き、精神分析学的アプローチをはじめとする主観性への関心の高まりを注視しながら、方法的可能性について考察している長谷川の序章がある。ついで、スペイン領アメリカ植民地の形成期からスペイン語、あるいはナワトル語などインディオ諸語、絵文書による多様なエゴ・ドキュメントが生み出されてきた歴史を丹念に跡づけ、中南米では早くも一九世紀にエゴ・ドキュメントを対象とする史料編纂や歴史研究が盛んになっていたことを教えてくれる第二章(安村直己)。また、一九六〇年代後半以降の後期ソ連時代に、「大祖国戦争」に従軍した兵士の手紙や回想、あるいは「普通の人々」のエゴ・ドキュメントなどが精力的に収集された経緯を論じ、政府からアーカイヴ、歴史家、市民団体、個人など多様なアクターが保存活動に関わったことを明らかにした第八章(松井康浩)があげられる。
 
二つ目のタイプが、エゴ・ドキュメントの史料論とナラティヴ(叙述、語り)の分析が織り合わさった論考で、第三章(若尾政希)、第四章(長谷川まゆ帆)、第五章(キャロライン・スティードマン)、第七章(小野寺拓也)が該当しよう。第三章では、近世日本の「自己語り」である『陽広公偉訓』や『河内屋可正旧記』が「太平記読み」を学びながらもオリジナルな思想を構築していること、さらには偽書の『東照宮御遺訓』や『本佐録』が出版されず写本でありつづけたが故に天道委任論を民衆層にまで浸透させるほどの影響力をもったという逆説が解き明かされる。第四章は、一八世紀フランスでベストセラー作家の一人になったグラフィニ夫人のライフ・ヒストリーが、彼女の書簡体小説『ペルー人女性の手紙』の主人公の物語にいかに織り込まれていたのか、両者の関係を丁寧に解きほぐしている。第五章では、靴下職人の日記や訴訟代理人の手紙などに基づいて、一九世紀初頭のイングランドの民衆世界における「法」の文化が自在な筆致で論じられる。第七章では、兵士と家族の双方の手紙を読み解きながら、第二次世界大戦末期のドイツ社会における「噂」の形成に野戦郵便が大いに関わっていたことが明らかにされている。
 
のこる第一章(大黒俊二)と第六章(横山百合子)は、評者自身の感情を交えずには読み進められなかった。いずれも、大黒の言う「限界リテラシー」の書き手が抑圧された状況下で書き綴ったエゴ・ドキュメントを、読者とともに読み解いていく手法が鮮やかである。第一章では、一六世紀初頭のイタリアで「魔女」として告発され、獄中で自殺した女性が異端審問で語ったとされる記録に、審問官による誘導や、彼女の「告白」の転写と改ざんの跡が見出せることが詳らかにされる。第六章では、幕末期の江戸新吉原遊郭の遊女たちの綴ったひらがなの日記を手がかりにして、彼女ら独自のリテラシー世界が描出される。苛酷な境遇に置かれながら、ついには放火という命懸けの行為に打って出た豊平、桜木ら遊女たちや、「魔女」ベレッツァ・オルシーニ、さらにはグラフィニ夫人からも同様に、人としての尊厳を守ろうとした姿が読みとれないだろうか。そこには、ジェンダー史との接点も浮かび上がってくるようである。とにかく読み応えのある一書である。(まきはら・しげる=島根大学教育学部教授・フランス革命以降の近代史・社会史)
 
★はせがわ・たかひこ=北海道大学大学院文学研究院教授・近現代イギリス史・歴史理論。著書に『イギリス福祉国家の歴史的源流』『現代歴史学への展望』『イギリス現代史』など。一九六三年生。