長谷川利行の絵 芸術家と時代
著 者:大塚信一
出版社:作品社
ISBN13:978-4-86182-781-5

時代の「窮民」の人生を辿り直す

昭和前期という時代を解くカギ

平山周吉 / 雑文家
週刊読書人2020年7月24日号(3349号)


本書の主人公・長谷川利行が死んだのは日独伊三国同盟が調印され、皇紀二千六百年祝賀に帝都が湧く昭和十五年(一九四〇)の秋だった。東京の片隅で行路病者として倒れ、養育院のベッドで誰にも看取られることもなかった。その壮絶な死を知人友人後輩たちが知るのは三ヶ月も後である。長谷川利行の四十九年の生涯と画業を、著者は副題にあるように、「芸術家と時代」という観点から辿り直す。
 
「彼は世間的には〝時代〟からとり残された脱落者であった。しかし一方で、日本が戦争に向かっていたあの暗い時代に明るく美しい絵を描いた、殆ど唯一の芸術家であった。別の見方をするなら、時代の矛盾の結節点にあって、その矛盾の中から、その矛盾を体現することによって、〝時代〟を超える芸術を生み出した芸術家であった、と言うことができるかも知れない」
 
長谷川は明治二十四年(一八九一)生まれだが、この評伝はまず思いもかけない同年生まれを対比的に登場させる。夏目漱石の小説『三四郎』の主人公である。東京帝大入学のために上京する三四郎は近代日本の素朴な立身出世主義エリートである。長谷川は三四郎コースを順当に歩んでもおかしくない家庭に生れながら、コースを大きく逸れていく。むしろ三四郎から畏敬される広田先生の「亡びるね」という近代日本への警鐘を、絵筆と路上でパフォーマンスとして表現する人物となっていく。
 
「最底辺の〝場所〟」と「ルンペンのような生活」から産み出される「色のコントラスト」と「筆触の感動」。それは「洋画を東洋(日本)の精神で描く」という実践の成果だった。著者は長谷川の出発点を、関東大震災の死屍累々の記憶と、その後の二年間の沈潜と研鑽に置く。その末に「自画像」(本書のカバーに使われている)の顔に「暴力を加えた」強烈な自我の表現に「絶対的なニヒリズム」を見ている。
 
長谷川利行の生涯は無頼と放浪の伝説に事欠かないが、著者はさらにその奥にまで目を届かせようとする。有名人や年上に対する傍若無人と、その一方での若い画家たちからの憧憬。死の床にあったニーチェの「ツァラトゥストラ」。その一節「最高の善意には最高の悪意が必要」、「こうした最高の善意こそ創造的な善意なのだ」。著者は長谷川の画業と同じ比重でその文業にも注目し、「私はこの時代にこれほど真摯で真剣な批評を他に知らない」と高く評価している。
 
本書を読むと、長谷川利行が画家としても生活者としても、時代の「窮民」であったという感は深い。彼が好んで描いた東京の東側――浅草、色街、瓦斯タンク、荒川放水路を同時代にやはり愛した人物がいる。「窮民」とは正反対の資産を持った「逸民」であった永井荷風である。荷風の方が一回り年上だし、二人に接点はないが、それゆえにいっそう、興味はつのる。木賃宿暮らしのルンペン姿と麻布偏奇館に住む洒落者の散歩者、セーフティネットの外に放り出された画家と、体制の外で時代を苦々しく観察する文人。二人が、なぜに同じ風景と空気に惹かれていったのか。昭和前期という時代を解くカギがそこには潜んでいるのではないだろうか。(ひらやま・しゅうきち=雑文家)

★おおつか・のぶかず=一九六三年、岩波書店に入社。「思想」や岩波新書、「へるめす」編集長などを歴任。一九九七~二〇〇三年まで、岩波書店代表取締役社長を務める。著書に『理想の出版を求めて』『山口昌男の手紙』『河合隼雄心理療法家の誕生』『顔を考える』『宇沢弘文のメッセージ』『反抗と祈りの日本画 中村正義の世界』など。一九三九年生。