震災風俗嬢
著 者:小野一光
出版社:太田出版
ISBN13:978-4-7783-1394-4

人間模様に終わらない自省のための一冊に

昼間たかし / ルポライター
週刊読書人2016年5月20日号


先日の熊本の震災。多くの人々が不安をぬぐいきれない中で、ソープ街だけは多くの客が詰めかけて大繁盛していたと聞いた。筆者も2011年の震災の数カ月後に、福島県南相馬市を取材で訪れる機会があった。そこでもっとも印象深かったのは、パチンコ屋やラーメン屋が客で溢れている光景であった。けっして人の力では逃れることのできない災厄。それを経験した人が求めるのは、単純で根源的な欲望なのだと思った。
 
本書は、被災地を舞台として、人間のもっとも飾らない部分が露わにする性風俗を軸とした5年にもわたる取材をまとめた作品だ。  そこで度肝を抜かれるのは、テーマである風俗嬢よりも、むしろ著者のノンフィクションライターとしての生き様である。震災の当日、北九州にいた著者は、携帯電話で東京にいる家族の無事を確認すると、そのまま被災地へと向かう。
 
「一つ身のまわりの不安要素が減ったことで、気が楽になった。あとはどうやって現地入りするかだ」  僅かな記述。そこにはなんの躊躇もない。  あの震災の時に、誰もが考えたのは家に帰ることだった。東京のあちこちでは帰宅難民が発生し、通りは徒歩で家を目指そうと何時間も歩く人で溢れていた。その同じ時間に著者は、石川県から新潟県、山形県へと被災地を目指していた。これまでの経験から「なにはともあれ、まずは現地に入る習性が身についていた」というだけで。
 
地震から原発へと続く不安の中で、家族に寄り添うのではなく、当たり前のように被災地を目指す。ともすれば人非人呼ばわりされそうな行動にも躊躇しないところに、著者の書き手としての覚悟と宿命とを感じるのだ。
 
そんな著者ゆえに、取材もまた、当たり前のように地を這い回るものとなる。震災の後に風俗で働き始めた女性を探すために客として店に電話し、派遣された女性に、その場で名刺を差し出し取材を依頼する。飲食店をめぐって男性たちから地道に話を聞いて情報を得ようとする。
 
大手マスコミであっても、吹けば飛ぶようなフリーの物書きであっても共通しているのは、被災地で取材し報道する行為が決してプラスにはならないということだ。取材しても被災者の腹は膨れないし、復興が進むわけでもない。
 
すべては取材する当人を満足させること。そんな書き手であれば、知らないフリをしたい側面も著者は素直に書き記す。
 
「不謹慎なことかもしれないが、わくわくしている自分がいた。新たな、自分だけの取材対象を見つけたときに感じる、長年の仕事によって躰に染みついてしまった感覚だ」  不謹慎である。でも、その不謹慎なことにワクワクするからこそ、5年にもわたって取材を続けることができたのは、間違いない。
 
5年にもわたる取材ゆえにエピソードは膨大だ。そこでは、震災で両親を失った風俗嬢。その風俗嬢のところには、やはり震災で家族を失った男たちが訪れるといった現実が描かれていく。妻を失った男性が風俗嬢に「亡くなった女房に似ている」といい風俗嬢もまた「その人がひとときでも奥様といる気持ちを味わえるのなら嬉しいことです」という。はたまた、震災の後に働き始めたという風俗嬢は被災とは関係ないといいつつも「あの経験をしてから、人生は一度だけって思うようになりました」と自らを振り返るのだ。
 
「渾身」という二文字が似合う大著を読み終えて考えたのは、あの震災の直後に非難されまくった東京都知事だった石原慎太郎の「津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」という発言の真の意味だった。震災以来、我々はそれまで気にもしなかったことを、ふと考えるようになった。原発のこと、被災地のこと。それはやっぱり人智を越えた天の采配だったのか。(ひるま・たかし=ルポライター)

★おの・いっこう=フリーライター。「戦場から風俗まで」をテーマに執筆。著書に「家族喰い」「風俗ライター、戦場へ行く」「東京二重生活」ほか。一九六六年生。