人間〈改良〉の倫理学 合理性と遺伝的難問
著 者:マッティ・ハユリュ
出版社:ナカニシヤ出版
ISBN13:978-4-7795-1457-9

遺伝学的エンハンスメントの
問題を考えるための羅針盤

広範な蓄積と新たな思考の枠組みを提示し、包括的な倫理的議論の扉を拓く

西貝怜 / 白百合女子大学言語・文学研究センター研究員・科学文化論
週刊読書人2020年8月7日号


記憶力の強化やドーピング、デザイナーズベイビーなど。これらに代表されるように、医科学的技術を医療という病の治療以外に応用し、健康な身体や精神の機能を向上させることを、増進的介入=エンハンスメントと呼ぶ。本書はその中でも遺伝学に関連深い問題に注目した、生命倫理学分野で著名なマッティ・ハユリュの集大成である。その構成は「序」と10章の論考、およびこれらを挟むように「監訳者によるはしがき」と「監訳者後記」からなる。
 
まず「序」では、遺伝学的エンハンスメントをめぐる意見の不一致を認め、合理性は多様でありながら、倫理的な問題は知的な議論で解決しうることを示すことが本書の要点であると述べられている。それを示すための以下10章は、大きく三部に分けられよう。第一部の第1章、第2章では問題や考察の視点、第二部の第3章から第9章では各論、第三部の第10章ではまとめと著者の結論が書かれている。
 
第1章では各論で扱われる七つの事例が抽出され、それぞれを考える倫理的な問題も提示している。それと第3章以降での対応関係を「第何章 事例:倫理的な問題」のように以下に示す。

 第3章 最良の赤ちゃん:親の選択
 第4章 聾者の胚を選択すること:法と道徳の関係
 第5章 組織提供のための子ども(救世主きょうだい)をつくること:人の道具使用
 第6章 生殖目的の クローン作製:他人の命をデザインする自由
 第7章 成人になりえるヒト胚幹細胞の研究:ヒトの脆弱性
 第8章 遺伝子治療:倫理学への楽観的態度と悲観的態度の影響
 第9章 大幅な寿命の延長:人生の意義

第2章では、各論での考察方法が述べられている。遺伝学的エンハンスメントの代表的議論を提示した上で、それぞれの主張に「対決を避けた合理性概念」をハユリュは認める。それは一つの問題における倫理的な合理性は複数存在しうるというものである。ここから「礼儀正しい傍観者の観点」、すなわち信用されている倫理的な主張の一つを選び肩入れすることなく各々の妥当性を認める観点から概説する、というのが各論での方法である。
 
実際に第3章から第9章までは、ハユリュの博識さによって各々の事例における様々な倫理的な言説が概説されていく。たとえば、救世主きょうだいについて書かれた第5章は、その反論の5つの立場を丁寧に記述した上で、さらにそれをほかの生命倫理学者がどのように判断しているかまでも追って閉じられている。
 
第10章では、以上の各論をさらにまとめながら、特に遺伝学的エンハンスメントにおける「対決を避けた合理性概念」からの考察について、以下の三点の結論に至っている。本書は特定の倫理的議論に妥当性を与えるものでないというのが一点目。帯文に書かれている通り「哲学者たちの議論を整理し、読者自身による倫理的決断への道を拓」くものであるというのが二点目。そして三点目は、本書は規定的な考察と比べて課題をより多く明らかにするということである。
 
たとえば最良の赤ちゃんが肯定され聾者の胚が否定されやすい点には、法的に許容されていても、倫理的には許容し難いという価値観のねじれが確認できる。ただ、そのようなねじれた価値観も「礼儀正しい傍観者の観点」から評価することで、遺伝学的エンハンスメントの今後の倫理的議論において、「人間と生きるに値する命への影響を計測すること」が重要だとハユリュは主張する。まさに本書だから示せた新たな課題でもある。
 
本書では適宜、要約がなされ、各々の章では見取り図やほかの章との関係も示されている。さらに概観にふさわしい豊富な資料を踏まえて、終始丁寧な議論が展開されている。まさに著者の狙い通り、読者に「自分なりの判断を下す力を与える」本となっている。この本書の更なる活用方法について、特に近年の日本における生命倫理学の蓄積から若干の所見を述べたい。
 
本書の原著の刊行は二〇一〇年であるために、たとえば澤井努によって促進されたiPS細胞の倫理的議論は取り上げられていない。ヒト胚に関する議論は本書でも重要な位置を占めているが、ヒト胚を経ないiPS細胞から、遺伝学的エンハンスメントの問題をさらに検討できる。このように、最新の医科学的技術やその倫理的議論の知見を更新しながら、本書の「対立を避ける合理性概念」の観点を引き継ぎ議論を進めることが我々にはできるのだ。
 
また、金森修が進めたように、生命倫理学について文学を通して論じること。本書では文学に関連する議論は極めて少ないが、本書と通ずるように、規定的な議論では見えない様々な論点の表出と問題解決への示唆などが、文学を通ずる生命倫理学研究では導き出されている。本書を踏まえて文学の多様性を取り入れるならば、さらに遺伝学的エンハンスメントについての議論が豊饒化することが期待される。
 
最後に。本書は取り上げる問題を「遺伝的難問」と名付け独自に設定し、かつエンハンスメントという概念も特に第8章で批判的に検討している。ただ、私が評するにあたっては遺伝学的エンハンスメントと置き換えが可能であり、そうすれば特に内容説明が簡潔になり見やすくなるとも判断したため、以上のように記述したことを付け加えておく。(斎藤仲道・脇崇晴監訳)(にしがい・さとし=白百合女子大学言語・文学研究センター研究員・科学文化論)
 
★マッティ・ハユリュ=フィンランド・アールト大学の哲学教授・生命倫理学・道徳哲学・政治哲学。国際生命倫理学会(IAB)創立メンバーの一人。一九五六年生。