五月の読書
著 者:高橋英夫
出版社:岩波書店
ISBN13:978-4-00-022971-5

戦前と戦後を架橋する文芸評論家を偲ぶ

読書という根源的な歩行を聴く「慎しみ(レリギオ)」の文藝の終焉

岡本勝人 / 詩人・文芸評論家
週刊読書人2020年8月14日号


私の娘は、私の書いた著作よりも饗庭孝男さんの本ばかり読んでいると、かつて高橋英夫は笑いながら語っていた。
 
フランス文学との関係で、辻邦生や清岡卓行やリルケのフランス詩などを考えるとき、ドイツ文学系の高橋英夫は、同じく昭和初年に生まれた評論家であるフランス文学系の清水徹や饗庭孝男はもとより、ドイツ文学系の川村二郎や英文学系の磯田光一や日本文学に造詣のある桶谷秀昭の書いたものを同時代として呼吸している。
 
本書『五月の読書』は、昨年の二月に逝去した高橋英夫の単行本未収録の貴重な原稿をまとめたものである。表紙の緑々たる武蔵野の写真が爽やかである。巻頭に羽沢の父の面影を語る「庭に咲く花」(高橋真名子)を置き、巻末には「高橋英夫頌」である「引用に吹く風」(堀江敏幸)の論考で挟まれた、四つの章のエッセイからなっている。
 
これらの「本の周辺」「芸術と親しむ日々」「文人の交流」「私という存在」の要点も、堀江氏が懇切な解説を加えている。そこには、高橋英夫の「モーツァルトを書くために」クラシック音楽を聴き、古書目録をめくる「五月の読書」がある。モンブランで名文を清書する「筆の遊び」の日常の時間は、文人の姿である。かっちりとした教養と認識を基本とする思索は、さらりと見える表現にも、深い教養による律儀な文章が滲み出す。幾つもの定説を生み出した研磨した批評の文体は、「中村光夫氏の文体」のごとく、私の批評という存在を示すものだ。
 
高橋英夫は、昭和の初年代を代表する文芸評論家である。
 
戦前と戦後を架橋する高橋英夫が亡くなると、三浦雅士は、昭和の父である批評の終焉と書いた。小林秀雄の呪縛と魅力からその周辺の批評に『批評の精神』を読み込んだ。鋭い批評とは別に、翻訳がある。世界第一の詩人をリルケとし、恩師「手塚富雄先生の思い出」のもとに卒論を準備し、堀辰雄の影響も受けて翻訳をした。『ホモ・ルーデンス』(ホイジンガ)と『神話と古代宗教』(ケレーニイ)は、後世に残る仕事である。そこで、指導者の林達夫に出会った。「「きみの訳した、『ホモ・ルーデンス』だけど、校正刷が出たらハヤシ・タップに見て貰おうと思ってるんだよ」。粕谷一稀は私にそう言った。」師はひとりであるとは限らないというのが、『わが林達夫』に見る高橋英夫の持論である。
 
私は、高橋英夫の晩年の著作について、ほとんど書評を書く機会に恵まれた。「芸術院会員」の記録採りの対話者の縁もあった。本著が貴重な本になるという思いは、心に強く響いてくる。リルケからホイジンガ、ケレーニイ、ホフマンスタールに至る反時代的な脱構築的翻訳から、批評の父である小林秀雄、そして河上徹太郎と折口信夫を母とする「批評の精神」とは、学問と詩(ポエジー)なるものを神話学の始原からの反復と再現という批評のなかに、融合させるものであった。そこに、宮川淳や宇波彰のテクスト系の引用論とは異なる『花から花へ 引用の神話 引用の現在』や『神を見る』『神を読む』に見る原初を再現する独自の引用論があった。高橋神話(ミュートス)学は、人間の実存(生=ビオス)を再現するリアリティの批評である。
 
永井荷風の影響も見逃すことができない。東京に生まれ育ち、浄瑠璃や歌舞伎への関心が顔を覗かせる。『藝文遊記』や『時空蒼氓』には、自由精神による文人の姿がある。『音楽が聞こえる 詩人たちの楽興のとき』『母なるもの 近代文学と音楽の場所』から続く最後の著作が『文人荷風抄』だった。その時、私には永井荷風についてはもう少し書くことがあると述懐していた。遺作集には、永井荷風に関する文章が見えないのは、少し残念である。同世代の評論家の思い出として「鞄の中身―磯田光一」を語り、巻末の「年譜」と「初出一覧」には、高橋英夫の生涯とこの本に託された文章の影を歩む像が浮き出ている。そこには、タウトや芭蕉や西行などのこれまでの著作が、高橋英夫の素顔とともに、書斎の自画像を飾っているようである。
 
昭和や平成という名前とともに、「観(テオリア)」という、よりよく観る批評家である高橋英夫が逝って、読書という根源的な歩行を聴く「慎しみ(レリギオ)」の文藝も、かくも麗しき自画像を残したまま、ひとつの時代の終焉を迎えたのかもしれない。(おかもと・かつひと=詩人・文芸評論家)
 
★たかはし・ひでお(一九三〇~二〇一九)=文芸評論家。著書に『偉大なる暗闇』(平林たい子賞)『母なるもの 近代文学と音楽の場所』(伊藤整文学賞)『批評の精神』『疾走するモーツァルト』『西行』『時空蒼茫』など。