西洋中世の正義論 哲学史的意義と現代的意義
著 者:山口雅広・藤本温(編)
出版社:晃洋書房
ISBN13:978-4-7710-3341-2

共通善とパンデミックという共通悪

中世正義論の中心概念、健康という最大公約数

古牧徳生 / 名寄市立大学教授・哲学・倫理学
週刊読書人2020年8月14日号


武漢に発生した肺炎禍で世界が騒然としているなか、出版されてまもない中世正義論に関する編著を手に取る機会があった。浅学の評者であるが時節柄、興味深い論文が何本かあった。
 
そもそも西洋中世において正義は伝統的にどう考えられていたのだろうか。第1章の吉沢によれば、プラトンが考える正義とは個人においてであれ国家においてであれ知恵・勇気・節制がそれぞれ本分を全うすることで全体としての秩序と調和が実現した状態である。逆に不正とは、これら徳の一つが不相応に主導権を発揮することで全体的調和を崩すことである。しかるに現実は流動的であるから、その時々で様々な徳の調和を維持するように努めねばならない。となれば人間は『クリトン』にあるように、筋道を立てて考え、最善と思われる原則logosに従うことで正義の実現に努めねばならない。
 
アリストテレスではどうか。『ニコマコス倫理学』第5巻によれば、正義とは人がそれを有することにより「正しいことを行える状態」である。そうした状態においては、様々な徳の単純な総和なぞではなく諸徳を調和ある総体たらしめるという意味で、他の徳より一次元上の「徳の全体」があるのであり、「正義のうちにすべての徳がある」とされる。つまり徳の中の徳が正義である。
 
このようにプラトンであれアリストテレスであれ「様々な徳の調和が正義」と考えられていたとすると、では「何を目的とするとき諸徳は調和するのか」が問われよう。ここに中世正義論の中心概念が登場する。それが共通善bonum communeである。序文において編者の山口は、アウグスチヌスにもトマス・アクィナスにも現代世界の問題に通じるような哲学的洞察があると指摘する。すなわちリパブリカニズムrepublicanismである。そのうえで山口は彼らのリパブリカニズムを近代リベラリズムの萌芽とする見方に異を唱える。その理由は、リベラリズムはあくまでも個人の権利を重視する立場であるが、リパブリカニズムには単に個人の次元に留まらず人が集団として追求する善や利益の実現を目的とする性格があるからである。確かにリパブリカニズムの語源であるレス・プブリカres publicaには「公共財」の他にも文脈によっては共通善の意味もあるから、リパブリカニズムが共通善の実現と促進を目的とする公共主義であることは明らかである。
 
同じ山口は、アリストテレス的人間観に立ち人間の本性が社会的動物であることを重視するトマスが法を三つに分けていることを重視する。すなわち神における永遠法lex aeterna、それの理性による分有である自然法lex naturalis、この自然法に由来する限りでのみ正当な人定法(実定法)lex humanitus positaである。トマスによれば、およそ法というものは個人ではなく人々の行為の規準であるから、法には他者への視点が必要であるし、一人一人の人間はあくまで共同体の部分にすぎないから、法は共同体の成員に共通する幸福へ、つまり共通善へと向けられたものでなければならない。となると人定法が法として正当であるためには絶対に共通善を視野から外してはならないのである。
 
では共同体の成員に共通する幸福とは何だろうか。第2章の川本の論文は有益である。アリストテレスによれば、他の動物は鳴き声で快苦を伝えるだけだが、人間はロゴスを備えているから快苦に加えて利益・不利益、善悪、正・不正を明らかにし、そうした価値を共有することでポリスを作る。だからポリスの目的とはポリス市民の共通の利益であり、それを守ることが政治的善つまり正しいことなのである。
 
ではポリス市民の共通の利益とは何だろうか。同じアリストテレスは『政治学』第3巻9章でポリスの目的として「よく生きる」を挙げている。
 
よく生きる――ここにおいて快楽主義者の評者は立ち止まらざるを得ない。「よく生きる」とはどういうことを言うのだろうか。人は一人一人違う。ということは「善さ」もさまざまであろう。となれば最初から共通善を振りかざすようなことはせず、より多くの人が満足できるように、それがだめなら、せめて不満が少なくなるように、ポリスの法を整えていくしかない。つまり功利主義である。しかるに、いかなる満足であれ、すべては健康あっての話である。なぜなら健康でなければ、どんな「善さ」も享受できないからである。すると健康こそ、いかなるポリスであれ、共通善の最大公約数ではないだろうか。仮にそうだとすると、逆に健康を脅かすものこそ最大の悪ということになろう。すなわち共通悪malum communeである。それは何か。目下のところはこの肺炎禍であろう。となると、すべてのポリスが第一に実現すべき正義とは、この共通悪のこれ以上の拡散を防止し、病毒を覆滅する医薬品を出来る限り早く開発し、それをより多くの人に支給することだろう。そのためなら、個人の自由や財産など近代リベラリズムが絶対視する自然権の制限も、もちろん条件付きであるが、やむを得ないのかもしれない。
 
これが自然法を神における永遠法の分有ととらえるトマスなら、自然法に反するような立法は絶対に許されない。しかし第9章の小川の論文によれば、「無限な善」という神の概念から必然的に導かれる倫理規範として自然法を捉えるスコトゥスでは必ずしもそうではない。共同体の危機といった緊急事態においては、より大きな悪を回避するためなら、広義の自然法については免除も可とされるようである。ちなみに、そのスコトゥスは友愛を正義の最高の徳とする。つまり正義の徳とは他者と何かを分かち合う徳であるが、そのために友愛は他者と直接、関わるのだから正義の第一の徳というわけである。すると二月余り前、ワクチンが開発された暁には公共財として無料提供するよう中共政府がアメリカに求めたという記事を読んで「馬鹿やろう、火元が言うな」と叫んでしまった評者などはさしづめ友愛に欠けた不徳の徒ということになるのだろうか。(ふるまき・とくお=名寄市立大学教授・哲学・倫理学)
 
★やまぐち・まさひろ=龍谷大学准教授・宗教哲学・西洋哲学史。一九七六年生。
★ふじもと・つもる=名古屋工業大学大学院教授・哲学・技術者倫理。一九六四年生。