カムイの世界 語り継がれるアイヌの心
著 者:堀内みさ
出版社:新潮社
ISBN13:978-4-10-602292-0

過去と現在を結ぶアイヌの精神

図書館発!こんな本が面白い【書評提供:図書館流通センター(TRC)】

谷口康雄 / 伊勢市立伊勢図書館
週刊読書人2020年8月21日号


パリの老舗写真館スタジオ・アルクールには、面差しにまだ若さを宿した名優ジャン・ギャバンのポートレートが残されている。「望郷」「大いなる幻影」で名声を不動のものとしていく頃の風貌が精緻に捉えられている。それだけでも貴重だが、この一葉にはさらなる驚きがある。50歳で主演した「現金に手を出すな」で示した円熟の境地も、60代を目前にアラン・ドロンと共演した「地下室のメロディー」に見る渋い老け役の精妙で彫りの深い味わいも、既に写し込まれているのだ。
 
優れた創造は、眼前にある事物の描写や事実の説明にとどまることはない。その場に流れる空気や情感をすくいとりながら、本質の中核にあるものを捉えて、揺るぎない真実を映し出す。
 
くだんの肖像写真は、不世出の俳優が放つ格別の存在感を余すところなく伝えるとともに、その後の大成を導いたジャン・ギャバンの精神の中核を写し撮っている。変わらないもの、変わっていくものが透徹した眼差しで峻別され、真実を記憶に刻んでいく感嘆すべき業がなしとげられている。
 
本書は40年近く続くビジュアルブックシリーズの一冊。ここには、時代がいかに動こうとも、変わることのないアイヌの真実を記して重みがある。真理を明確な輪郭とともに提示することは、名優のポートレートと通じる。アイヌの心に深く分け入り、日々に移ろう世界にあっても決して動かないものを捉え、魂の奥底にある真実を刻み込んでいる。
 
著者と撮影者は夫妻で、これまで音楽を活動の中心に据え、ヨーロッパなどを探訪してブラームスやショパンなど大作曲家の足跡をたどった。そこでは、歴史的人物が目にしただろう風景や頬に感じた風を現在の情景のうちに捉え、今を生きる私たちの心を震わせる音楽の実相を綴ってきた。近年は寺社を巡りながら日本的な心のありようを活写する。
 
1990年から北海道に居を構える2人は、アイヌに取材した今回も、多くの人の言葉に耳を傾け、さまざまな風物と向き合って、本質に迫っていく姿勢で一貫する。山は狩猟の場であり、アイヌには登山という概念はない。サケが海から川を上るように、川も高いところから低いところに流れるとは考えない。
 
道内各地を足繁く訪れ、こうしたアイヌ独特の自然観、価値観をアイヌの心を受け継ぐ人々の何気ない日常や厳粛な祭祀の場から丹念に拾い集める。端正で温かな手触りの文章と美麗で神秘的な写真はともに、アイヌの生の言葉を紡いで、脈々と続くアイヌの精神を過去と現在を結ぶ不変のものとして立ち上らせる。
 
神を意味するカムイは人間界のそこかしこに存在するという。世界で重きをなしたドイツの劇作家で作家のタンクレート・ドルストはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」を演出した際、「神は今も私たちの世界に存在する。しかし、それを感じ取れる人間は限られている」と話してくれた。アイヌの人々は、こうした希有の存在なのだろう。ユングが「変容の象徴」で示した神々の創造につながる集合的無意識も、日常的な感覚で胸に落ちるものを感じさせる一冊となっている。