「世界文学」はつくられる 1827ー2020
著 者:秋草俊一郎
出版社:東京大学出版会
ISBN13:978-4-13-080108-9

この無機質な書籍の功徳

文学は少数派のものであり、教育や商業主義に馴染まないもの

小谷野敦 / 作家・比較文学者
週刊読書人2020年8月21日号


私は「世界文学」とかいう流行語が嫌いである。「夏目漱石は世界文学か」などと言われると、いじましいし、海外で 読まれないと価値がないとでもいうのか、と不快に思う。
 
秋草俊一郎のこの本は、そんな宣伝のための本ではなく研究書だ。副題に「1827」とあるのは、ゲーテがエッカー マンに対して「世界文学」という語を使った年をさしている。私は学生時代、大学に、英文科や国文科、仏文科など、 国別の文学科しかないのが不満で、これでは外国語大学ではないか、文学そのものを学ぶ学科はないかと思い、結果的 に比較文学で学んだ。比較文学の入門書というのは奇妙なもので、そもそも比較文学をまともにやろうとしたら、日本 人なら日本と海外の古典を一通り読んでからでないと始められないのだ。その私からすると「国民文学」「世界文学」 といった言葉は今もって当たり前のことを言っているという感じがする。
 
本書は、モウルトンやモレッティの論を参照しながら、日本における「世界文学全集」という、「全集」という語の本 義からいえばおかしなものの変遷をたどり(ここは新味はない)、さらにソ連における巨大な世界文学アンソロジーに ついて触れ、「世界文学全集」が日本だけのものでないことを示し、ソ連の日本文学者ニコライ・コンラド、日本の比 較文学者で文藝評論家の佐伯彰一がウィスコンシン大学で出会ったプログラムに触れ、また西欧の世界文学アンソロジ ーに赴いて、樋口一葉が特別扱いされた理由や、私も聞いたことのない沖縄の久志富佐子という謎の文学者が取り上げ られている理由にも触れる。
 
著者は本書が「無味乾燥」な印象を与えるかもしれないと言い、本来はもっと「無機質」なものになる予定だったと書 いている。しかしこれは著者が学問とは何かを理解しているからで、学問は文藝評論やジャーナリズムではない。著者 はこれまで博士論文を含め三冊の著作を出しているが、いずれも博士論文相当の著作たりえている。
 
そんな著者でも、近年の「ポリコレ」的なアンソロジー編纂については、「これでは「世界文学」を読んでいたはずが 、ポストコロニアリズムやフェミニズムといった西洋の理論の草刈り場にいたという事態になりかねない。もちろんそ れでも教育意義はなくはないが、結論が見えているだけに退屈な面もある」などと意見を言うこともある。これについ て私は、ポリコレの人が言うような意義は、別に文学でなく、ノンフィクションや評論のほうがよほど有効に達成され るはずで、その人がたまたま文学研究者だから言っているだけではないかと思っている。秋草もそう思っているはずだ が、そういうことは言わない。 
 
ソ連の世界文学全集は、プルーストやジョイスなど反ソ的な作家が排除され、ソ連邦内の少数民族の作家が入れられて いるなどのことを除けばあまり日本のそれと変わらないのが意外であった。近年のアンソロジーが、西洋中心主義批判 で第三世界の文学者を入れようとしているわけだが、すでに二十世紀半ばで「文学の黄金時代」は終わっているのでは ないか、といったあたりは、本書では踏み込まれていない。西洋中心主義批判が、日本では一部の比較文学者によって 日本ナショナリズムに利用されているといったことも書いてない。しかしそれは書かなくてもいいだろう。
 
米国で使われるノートン版アンソロジーの、授業を進めるための懇切丁寧なマニュアルを紹介されると、文学というの は個々人が関心を持ち自分で探して読んでいくものだという原点に気づく。福田恆存が「一匹と九十九匹と」で言った ように、文学は少数派のものであり、そもそも教育や商業主義に馴染まないものだということに気づかされるのが、こ の無機質な書籍の功徳であろう。文学に関心のない生徒にいくら教えても無駄なのである。どうもこのところ、文学の 議論は出版社の戦略や文学部の大学教員の利権によっておかしなところをさまよっているようだ。衰退する一方の文学 業界が、秋草のような俊英を生み出すのは家貧しうして、ということか。(こやの・あつし=作家・比較文学者)
 
★あきくさ・しゅんいちろう=日本大学大学院総合社会情報研究科准教授・比較文学・翻訳研究。博士(文学)。著書 に『アメリカのナボコフ 塗りかえられた自画像』、訳書にレイノルズ『翻訳 訳すことのストラテジー』など。一九七 九年生。