ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム
著 者:那須耕介・橋本努(編著)
出版社:勁草書房
ISBN13:978-4-326-55084-5

支援なのか 模範の押し付けなのか

気づかれぬように誘導するナッジ的政策と自由の境界線

竹内幹 / 一橋大学准教授・実験経済学
週刊読書人2020年8月28日号


「ナッジ」とは、肘で軽く人を小突いて誘導することを意味するが、最近では、非合理的な行動を防ぐための介入を指すようにもなった。つい過ちを犯しがちな本人を慮り、正しい方向へと導いてやるパターナリズム(父権主義)でありながらも、その本人に行動を強制はしないリバタリアン(自由主義)の立場を貫くのが特徴だ。
 
ナッジはリバタリアンであるから、法による規制や補助金や罰金には依拠しない。例えば、カフェテリアにおいてサラダを手前に、揚げ物は奥のほうに配置するだけで、健康的な食生活を後押しできるという仕掛けがナッジだ。サラダに補助金を出して価格を下げるわけでも、揚げ物を禁止するわけでもないのに、消費者の自発的な選択の結果として揚げ物の消費量が落ちる。
 
ナッジは、その父権的自由主義ゆえに公共政策と親和性が高く、各国政府内にナッジユニットと呼ばれる専門部署が作られるほど広く受容され、様々な場面で応用されている。その理論背景には、人は非合理的な選択をしてしまうとモデル化する行動経済学がある。ここから、政策当局がその人のために〝正しい〟行動をナッジで後押しすべきだといえるわけで、経済学モデルとそれに基づいたデータ実証がある点も政策現場にナッジが浸透した理由の一つだ。こうした背景は、ナッジの提唱者の一人であるリチャード・セイラー氏による『行動経済学の逆襲』に詳しい。学会で異端視されていた行動経済学を精緻化し、彼はついにノーベル経済学賞を単独受賞する。その時代の変遷や理論の発展がよく解説されている。
 
さて、ナッジは本当にリバタリアニズムなのか、パターナリズム的政策介入をそもそも許容してよいのか等、思索の種は尽きない。例えば、揚げ物に手が伸びないように誘導するナッジに対して、なにを食べるかを操作するのは法的モラリズムへの道を開く危険なものだと批判できる。だが、健康的なメニューの選択はあくまでも自発的なのだから問題ないという逃げ道が用意される。それに対し、ナッジは明示的な強制でないが、本人に気づかれぬように行われる遠隔操作だと非難すれば、事後的に健康になったから本人も受容するであろうと再反論されてしまう。ここには、結果によって介入手段を安易に正当化する帰結主義の危うさもみられる。
 
本書はナッジが抱えるこうした問題点を考察し、主に公私のあり方について論じたものだ。編者の一人である那須耕介氏による「はじめに」および「第2章 ナッジはどうして嫌われる?」での明解な論点整理は見事である。これらを再確認し、福原明雄氏による「第7章 「リバタリアン」とはどういう意味か?」でナッジの欺瞞性の指摘を先に読むことをおすすめしたい。ただし、複数著者による分担執筆のせいか、本書には議論の重複や論拠に乏しい主張にも思える箇所が一部にあった。各章のトピックを見定めた上で読み、全章を経た後に鳥瞰図を作るつもりで読めばよいだろう。
 
法学からのナッジ批判は大いに興味深い。欲を言えば、統治や権力といったマクロなアプローチだけでなく、例えば、行動経済学の意思決定モデルと民法の意思表示理論を対比し、非合理的な選択と錯誤の関係を考えたり、ナッジの作用点を探ったりするミクロな分析もみたい。他にも、被験者を「騙す」デセプションや不完全な情報開示を多用する心理学実験において、被験者に対する事後的なデブリーフィング(種明かしと実験目的等の解説)が研究倫理上で必須であることも関連しそうだ。ナッジが同様の要素を含む以上、事後的な情報開示が必須であるといえる。こうした課題からのナッジ論にも期待したい。本書は、ナッジに日常的に携わる私にとっても、ナッジのあり方を再確認できるありがたい機会を提供してくれた。(たけうち・かん=一橋大学准教授・実験経済学)
 
★なす・こうすけ=京都大学教授・法哲学。著書に『多様性に立つ憲法へ』、共著に『現代法の変容』、訳書にキャス・サンスティーン『熟議が壊れるとき』など。一九六七年生。

★はしもと・つとむ=北海道大学大学院教授・経済社会学・社会哲学。著書に『解読 ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』』『自由の社会学』、編著書に『現代の経済思想』など。一九六七年生。