乱歩の日本語
著 者:今野真二
出版社:春陽堂書店
ISBN13:978-4-394-77000-8

乱歩の言語意識の変化に迫る

それぞれのテクスト固有の問題と資料的可能性

柿原和宏 / 早稲田大学大学院在学・日本近現代文学
週刊読書人2020年8月28日号


乱歩テクストを読むとき、これこそ乱歩の文体だと感じることがある。そして、その文体は乱歩の特殊な言語意識から生み出されたもので、時代を超越した普遍的なものだとついつい錯覚してしまう。
 
しかし当然のことながら、乱歩の文体は乱歩のふれてきた言語に強く影響されて構築されたものだ。乱歩の文体の特殊性を指摘するには、同時代および先行する言語との比較を経なければならない。また乱歩の文体も普遍的なものではなく、時代や言語の移り変わりとともに変化していく。
 
これらの前提のもとに乱歩の言語意識に迫るのが本書である。とりわけ乱歩の言語意識の変化の考察に力点が置かれており、乱歩が校訂に関わったテクストの異同を詳細に比較し、乱歩の文体の変化を通して時代ごとの乱歩の言語意識を跡づける方法がとられている。
 
本書は全八章から構成される。第一章はさまざまな文庫版乱歩テクストを検討する。「執筆時の気分を反映した」(光文社文庫版全集)といった校訂方針をとりあげ、編者による恣意的な乱歩の文体像を基準にテクストが校訂された点をきびしく批判する。第二章は章題・語り・「作者附記」から、第三章は初出テクストから、第四章はテクストに仕掛けられた間テクスト性から、乱歩テクストの言語空間を考察する。第五章はさまざまなテクストを渉猟しながら、乱歩における「洋館」・「西洋館」のイメージ変遷を辿る。第六章は乱歩テクストとそのリライトを比較検討し、第七章は一般的な用例と比較しながら乱歩の用いた片仮名の特殊性を論じる。第八章は再版や再刊によって消えてしまった乱歩の文体を追跡する。
 
本書の試みは、乱歩研究のメディア的な基盤を問い直すものとして受け取ることができる。現在、文学研究で乱歩テクストを扱うときは光文社文庫版全集を用いることが慣例になっている。なるべく初刊本に依拠してテクストの校訂がなされたうえで、テクストの異同を収録し、かつ注や解題が充実しているとみなされているからだ。しかし本書の問題意識を受けて、乱歩テクストが光文社文庫版全集に一元化されている研究の状況をいまいちど考え直す必要性を強く感じさせられた。
 
たとえば本書は、春陽堂版全集(一九五四・一二~一九五五・一二)から乱歩テクストを引用する。春陽堂版全集は「当用漢字表」や「当用漢字字体表」の告示後に出版されており、乱歩も文体を新しくする意図をもってテクストの校訂に積極的に関わった。本書はこの点に注目し、戦後の時点での乱歩の言語意識を考察しうる資料として春陽堂版全集を活用するのだ。乱歩の場合は全集だけをみても実にさまざまな出版社から刊行されているが、研究の分野では光文社文庫版全集以外の乱歩テクストはほとんど顧みられてこなかった。言うまでもなく、テクストは刊行されるたびに修正されるため、刊行形態の数だけ乱歩テクストがある(光文社文庫版全集はそのひとつに過ぎない!)。それぞれのテクストに固有の乱歩の問題があり、その資料的可能性を発掘していくのが研究の仕事だろう。乱歩について何を明らかにしようとし、そのためにどの乱歩テクストを用いるのか。あるいは、それぞれの乱歩テクストをどのように活用すれば、これまでとは異なった乱歩の問題がみえるのか。これからの乱歩研究では、改めてそれが問われている。(かきはら・かずひろ=早稲田大学大学院在学・日本近現代文学)
 
★こんの・しんじ=清泉女子大学教授・日本語学。著書に『仮名表記論攷』『振仮名の歴史』『正書法のない日本語』『漢字からみた日本語の歴史』など。一九五八年生。