1964 東京ブラックホール
著 者:貴志謙介
出版社:NHK出版
ISBN13:978-4-14-081823-7

首都の過去、映像・活字から俯瞰

汚染や犯罪など悲惨な記録の再編集に驚嘆

藤井誠二 / ノンフィクション作家・愛知淑徳大学非常勤講師
週刊読書人2020年9月4日号


 魑魅魍魎が蠢く魔界のような東京を首都とする日本社会の只中に、私は生まれたことになる。私は一九六五年に愛知県名古屋市内の古びたスナックなどが立ち並ぶ場末の歓楽街の片隅で生まれ育ったから、むろん東京のありようは肌身でも感じようもないが、本書は一九六四年に起きた事件や事故、その年前後の東京のありようを、著者がかつて制作した映像作品をもとに、さらに一九六四年当時の映像作品や出版物などをつなぎ合わせて俯瞰して描いたものである。

 〈東京は世界最大級の汚染都市だった。有毒ガス、塵埃、都民一〇〇〇万のゴミが街にあふれた。ハエ、蚊、ネズミが増殖。赤痢、チフス、コレラが流行する疫病都市でもあった。生活環境の破壊は信じがたいほど放置されていた。〉というプロローグの一節を読むと悪寒が走る。

 オリンピックが開催され、高度経済成長を突き進む大都会の深層と、その犠牲になった人々の存在の悲惨さには何度もページを閉じたくなった。そして当時のアメリカとの関係や米軍基地問題、東京一極集中、政治権力の腐敗、オリンピック商法に便乗する姿勢など、そのほとんどがそのままか、かたちを変えながら継続していることがわかる。どんな国にも裏と表があるという建前を通り越して、東京を核とした日本という国の土壌からは腐敗臭が消えることはなく、私たちはそれに慣れきって生きている。汚泥の中に私たちは両足をとられていることに気づこうとしていない。たとえば、アメリカとの間で取り交わされた「地位協定」は他国は改定していっているのに、なぜ日本だけがそのままであり、アメリカの「属国」状態にあるのか、その歴史的発端も本書ではわかりやすく摑むことができる。

 本書がテーマとする「一九六四年」は時代のターニングポイントだと前から思ってきた。評論家の宮崎哲弥氏と『少年をいかに罰するか』(講談社+α文庫、親本は『少年の罪と罰』)を作ったときに、戦後の少年犯罪の推移を調べるために、当時の新聞を漁っていたからだ。猟奇的な少年事件は連日起きていた。私は「犯罪被害者の権利」の観点から「少年」に対する法の仕組みをオープンにして、かつ、罰をもっと重くせよという主張を繰り返してきたが、それは戦後の少年犯罪がすこぶる増えているなどという――テレビ報道などはこの言葉を必ずといっていいほど枕にしていた――デマに立脚する気持ちからではもちろんなかった。

 膨大な量の当時の新聞のコピーに目を通しながら、宮崎氏との対話は進められ、大部の対話本となった。拙著は本書でも取り上げてもらっているが、〈六四年に凶悪な少年事犯が毎日のように発生していた記憶は失われている。それゆえに、九〇年代前後の少年犯罪が「前代未聞の異常な傾向」とみなされた。しかし殺人事件は、むしろ九〇年代に減少している。〉という著者の分析は正鵠を得た指摘である。

 本書が特徴的なのはその「手法」である。著者も書いているが、「一九六四年」という時代やその前後につくられた膨大な量におよぶ映像を浚渫するかのように観、出版物や新聞を読みこみ、核心的な箇所を抜き出したり、要約するなどして編集している。そして合間に著者の分析をはさみこんでいく。長尺の映像番組をつくるためのチームゆえに可能な面もあったのだろうが、著者の編集能力には感嘆するしかない。こうした「方法論」を用いることができ、過去の記録に再び脚光を当てれば説得力をもって時代を概観できるのだ。映像は活字に比べると圧倒的に、いちど放送されると再び観ることができない仕組みになっているが、宝の持ち腐れだと常々思ってきた。貴重な過去の時代の記録をこうしたかたちで「再編集」し、作品化して提示することは、私たちの立っている地点を教えてくれることになる。(ふじい・せいじ=ノンフィクション作家・愛知淑徳大学非常勤講師)

★きし・けんすけ=元NHKディレクター。NHKでドキュメンタリーを中心に多くの番組を手がけ、二〇一七年に退職。著書に『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』、共著に『NHKスペシャル 新・映像の世紀 大全』など。一九五七年生。