感染症社会 アフターコロナの生政治
著 者:美馬達哉
出版社:人文書院
ISBN13:978-4-409-04113-0

「人間対ウイルス」を越えて、
「コンスティテューション」の軋みを分析

粥川準二 / 県立広島大学准教授・社会学・生命倫理
週刊読書人2020年9月11日号


 現在、書店には即席でつくられた〝コロナ本〟が数多く並んでいるが、じっくりと読む価値のあるものはあまりない。本書もまた急いで書かれたような印象もあるが、例外どころか、間違いなく必読である。

 本書のキーワードの一つは「コンスティテューション」である。辞書的には「構成」という意味だが、著者の美馬達哉はこの言葉を、ミシェル・フーコーの議論を踏まえて「広い意味での社会・環境因子の複合した状況」と解釈・再定義する。本書の目的は「人間対ウイルスという二項対立の短絡的な考え方を相対化し、社会現象としてのパンデミックとコロナウイルスの存在との隙間にあるさまざまなコンスティテューションの軋みに耳を澄ませて、思考を積み重ねること」だと著者は書く。そして二〇〇三年に自分が書いた論文を変奏して、「COVID―19に代表される〈感染症〉が、国際社会によって対処されるべき一つのスペクタクルとして認められているいまこそ、病原体をめぐる生物医学的(バイオメディカル)言説に対して、〈感染症〉の生政治的(バイオポリティカル)分析を対置する絶好のチャンスだともいえるだろう」と宣言する。

 本書第一章は「生物医学とは異なる視点」、すなわち生政治的な視点で感染症と人間との関係をまとめる。続いて第二章は新型コロナウイルス感染症(COVID―19)がパンデミックになる前の状況を、第三章はこのウイルスの基礎知識を解説する。第四章と第五章は「クラスター対策」や「社会距離(ソーシャルディスタンシング)」といったCOVID―19対策を解説し、その限界や問題点を医療社会学的に指摘する。第六章は感染症やその対策の含意を、フーコーの権力論を参照しながら整理する。第七章は新型コロナウイルス感染症を二〇〇九年の「新型インフルエンザ」と比較し、今後を展望する。そしてエピローグは、感染症が描かれた映画を解説することで読者の想像力を刺激する。

 最も個性的なのは第四章であろう。しかし評者としては異論がないわけではない。美馬はクラスター対策を「犯人探し」「犠牲者非難イデオロギー」と批判する。一方、日本では感染者数も死者数も、罰則付きの外出禁止などいわゆるロックダウンなしで、比較的少なく抑えられているという事実を書いていない。もちろん、少ないことの要因ははっきりしないし、複数かもしれない。だが、クラスター対策がある程度有益であった可能性はある。また、クラスター対策は別に「スーパースプレッダー」という「犯人」を見つけて、非難したりそのプライバシーを暴露したりしたいわけではないはずだ。

 美馬は隔離や社会距離を含めて感染症対策を、差別や排除と結びつけすぎていないか。武田徹は一九九七年に発表した『「隔離」という病い』で、ハンセン病の歴史を振り返りながら隔離を論じている(中公文庫)。武田は医療技術・政策としての隔離を全面否定することなく、人権思想との共存を模索する。ここで詳しく紹介する余裕はないが、ポイントは「補償」と「利他心」であろう。ぜひとも本書とセットで読んでほしいが、印刷版は品切れらしい(Kindle版が購入可能である)。

 とはいえ、本書での美馬の指摘はきわめて重要なものばかりだ。たとえば、手洗いなどわれわれの多くにとっては当たり前の感染症対策も困難である人たちの存在に気づくよう、美馬は読者に促す。「マスクを付けるべきかどうか、手洗いをどの程度すべきかと悩むには、マスクを買うお金と水の出る蛇口を持っていなければならない。/自宅隔離されることを心配するには、その日暮らしやホームレスであってはならない。/医療崩壊を不安に思うには、ふだん病院にアクセスできていなければならない。/社会距離を十全に保ち続けるには、日常生活に介助や支援を必要としない「健常」な成人でなくてはならない」(かゆかわ・じゅんじ=県立広島大学准教授・社会学・生命倫理)

★みま・たつや=立命館大学大学院先端総合学術研究科教授・医療社会学・脳科学。著書に『〈病〉のスペクタクル』『脳のエシックス』『リスク化される身体』など。一九六六年生。