小説家の四季
著 者:佐藤正午
出版社:岩波書店
ISBN13:978-4-00-061102-2

小説家の四季

書評キャンパス―大学生がススメる本―

山邊恵介 / 筑波大学大学院人文社会科学研究科現代文化学専攻博士前期1年
週刊読書人2020年9月18日号


 本書は、小説家である佐藤正午の、長崎県佐世保市でのおよそ九年分の日常が記されたⅠ部「小説家の四季」と、断章のように小説家の思考が刻まれたⅡ部「作家の口福」、他の小説家の作品解説を収録したⅢ部「文芸的読書」からなる一冊だ。

 随筆であるⅠ部とⅡ部では、小説家がいかに小説を書く以外の日常から成るかが、競輪場や図書館、喫茶店、あるいは料理や買い物についての文章から伺える。が、それでも目を惹くのは、小説家の日常に織り込まれた読書の光景だ。モーリス・ドリュオンの童話を編集者から贈られ、近松秋江を図書館で探し、吉行淳之介を眠る前に棚から取り出す。小説家が本を手にするその時、それまでの日常にさっと冷気がよぎり、本と個の世界がはじまる緊張が予感される。緊張の後に広がる世界は、Ⅲ部「文芸的読書」に集約されている。特に、そのうちの一編、野呂邦暢『愛についてのデッサン─佐古啓介の旅』への解説に注目したい。解説は、「私事」と題されている。

 小説家、野呂邦暢は長崎県諫早市に生まれ、彼の地で作品を書き、没した。享年四十二歳。その死の二年前、まだ佐藤正午と名乗っていなかった二十一歳の学生は、小説家の『諫早菖蒲日記』を読み、自分の住む佐世保市から隣の諫早市へ手紙を書いた。小説家は、無名の学生に返信した、らしい。三十年の時間の中で、学生は小説家になり、諫早の小説家は亡くなり、学生に届いた小説家からの手紙は何処かへいってしまったという。そもそも本当に返信は来たのか。「実は、あれから三十年ほどたつうちに僕が、野呂邦暢という作家を大切に思うあまり、自分に都合よく捏造した記憶なのかもしれない、そう疑ってみる余地があるということだ」。感想を認めたいと思うような小説を書く人から、手紙の返事がきた。それは捏造を疑うほどに、紛れもなく幸福な記憶であろう。

 優れた小説家は優れた読者でもある。本書に収録された、他の作家の小説への解説に、小説家・佐藤正午の精細な読書の姿が見える。例えば、伊坂幸太郎『残り全部バケーション』への解説「本気」では、伊坂氏の小説作品の奇妙な設定や唐突に思われる展開の連続の中に、いかに小説家としての「正論」が貫かれているかを、本文に書かれていない場面までも視野に入れながら、まさに解いて、説く。佐藤の前で、小説作品はそのメカニズムを明らかにするほかないのか、とさえ思える。

 しかし、野呂邦暢の作品について書かれるのは、そうした「解説」とは全く異なる文章なのだ。確かに佐藤は野呂邦暢作品を極めて慎重かつ丁寧に解いている。その「詩性」と「笑い」について限りない親しみと畏敬を込めて、その一文一文を幸福な読書の経験、喜びに満ちた本との関係を呼び起こすものとして、労わりながら、引用する。野呂邦暢の作家史を見つつも、それは冷徹な分析でもユーモアある批評でもない。それは訥々と思い出を語る声だ。この「文章」を読む者それぞれに、自らにとって大切な作家の、美しい作品を読んだ時のことを思い出させる声。仮に野呂邦暢を知らずとも、繰り返し開きたくなる本が一冊でもある人ならば、小説家が何を語っているかが感じられるだろう。「私事」と呼べるほど濃密な、小説家と読者、本と個の関係の一端として、この短文はある。たとえ覚え違いであれ、小説家がその思い出を語る時、それを聞いた者たちは自らの「私事」を思い出す。

★やまべ・けいすけ=筑波大学大学院人文社会科学研究科現代文化学専攻博士前期1年。長崎県出身。「有用/無用」性の概念に注目して、「仕事」「働くこと」とは何かを考えています。好きなものは、ラジオと編み物とお茶を飲むこと。