百年の記憶と未来への松明
著 者:霜鳥慶邦
出版社:松柏社
ISBN13:978-4-7754-0270-2

「文学」がどこまで「未来への松明」となりうるか

第一次世界大戦勃発百年、その記憶をめぐりせめぎ合う力

細見和之 / 京都大学教授・ドイツ思想
週刊読書人2020年10月23日号


 二〇一四年は第一次世界大戦の勃発百年の年だった。日本では、本書でも紹介されている京都大学人文科学研究所で「第一次世界大戦の総合的研究」班が全十二巻にわたるシリーズを刊行したが、それを除くと目立った動きは見られなかった。日ごろから、日清戦争、日露戦争、アジア太平洋戦争の歴史と記憶は語られても、第一次世界大戦についてはほとんど口にされることがない。そもそも第一次世界大戦に関与したという意識がきわめて希薄なのだ。

 それに対してヨーロッパでは、第二次世界大戦の記憶よりも第一次世界大戦の記憶のほうがこだわりをもって語られる。まずもって初めての「世界戦争」であったことにくわえて、第二次世界大戦のようにファシズム対民主主義といった分かりやすい括りかたができない戦争だったからだ。第一次世界大戦は参戦国のあいだにナショナリズムの熱狂を生み出したものの、終わってみれば、どの国にとっても、どの国民にとっても、大義のない戦争、その意味で理不尽きわまりない戦争だった。私はドイツのフライブルク大学を訪れたとき、その構内に、第一次世界大戦で戦死した出征学徒の名がずらりと掲示してあるのを見て、なんとも言えない思いに捕らわれたのを覚えている。

 本書は、第一次世界大戦勃発百年の前後に、英語圏のひとびとが、主として詩と小説をつうじて、第一次世界大戦の記憶とどのように向き合おうとしていたかについての、きわめて誠実なレポートである。「英語圏」とひと言でいっても、イギリスはもとより、ベルギー、カナダ、オーストラリア、アイルランド、パキスタンと、著者が関心を寄せてきた地域はまさしくグローバルに展開している。しかも、多くの地に著者は自ら赴いて、いわばその地のひとびとの気配を肌で感じながら、膨大な英文テクストを読みこなしているのだ。本文には、著者自身が撮影した、第一次世界大戦の記憶と関わるモニュメントなどの、優れた写真が多数配されている。

 本書を読むと、まさしく第一次世界大戦勃発百年を期に、英語圏においてその記憶をめぐってさまざまな力がせめぎ合っていることがよく分かる。

 たとえばオーストラリアを主題とした第六章では、第一次世界大戦への参与を自らの国民国家としての起源に位置づけようとする政府側の大きな力に、小説(トマス・キリーニ『マルスの娘たち』)の末尾に二つの結末を置いて、歴史の可能性をあくまで開かれたままにしておこうとする作家の繊細な企てが対置されている。アイルランドを主題とした第七章では、イギリス軍の一員として参戦したひとびとと、イギリスからの独立をめざして蜂起して虐殺されたひとびとの記憶をどのように繫げてゆくのかが問われるとともに、その先で、アイルランド自体がもっと多様な他者(中国人労働者、アルジェリア兵など)からなることの発見にいたるプロセスが小説作品(セバスチャン・バリー『遥かなる路』)にそくして語られる。第一次世界大戦の激戦地で、多数のイギリス兵が斃れたベルギーのイーペルという小さな町での「ラスト・ポスト」(葬儀ラッパ、消灯ラッパ)の演奏儀式をめぐる記述もたいへん興味深い。

 注文があるとすれば、もうすこし読者層を幅広く設定してほしい、ということになるだろうか。たとえば、第一章で「戦争詩人」ウィルフレッド・オウェンがいまなおどれだけだいじにされているかが確認されているが、肝心のオウェンの詩そのものを本書ではきわめて断片的にしか知ることができない。あるいは、EUからのイギリスの離脱をめぐって生じた「ブレグジット文学」についても、注で二人の原著者の名前が参照指示されているのみである。

 もはや大学生の大半は二十一世紀になってから生まれた世代である。彼ら、彼女らにとって、「文学」がどこまで「未来への松明」となりうるか。著者の祈るような思いを深く共有したい。(ほそみ・かずゆき=京都大学教授・ドイツ思想)

★しもとり・よしくに
=大阪大学言語文化研究科准教授。専門は英語文学、第一次世界大戦の記憶の総合的研究、D・H・ロレンス。分担執筆に『文学理論をひらく』『ロレンスへの旅』。一九七六年生。