無心のケア
著 者:坂井祐円・西平直(編著)
出版社:晃洋書房
ISBN13:978-4-7710-3291-0

東洋思想の視点からケアを捉える

ケアする者とされる者、その協働への示唆

宮坂道夫 / 新潟大学大学院保健学研究科教授・医療倫理学・ケア論
週刊読書人2020年11月13日号


 私たちは様々なものを「ケア」という言葉で呼んでいる。医療現場で医師が行う治療も「ケア」であり、日々の暮らしの中で傍らに寄り添ってくれる人や動物から受け取る温かさのようなものも「ケア」である。この 「ケア」なるものとは何なのかを考えるのが「ケア論」である。序章で触れられているように、今日のケア論は主に英語圏で発達し、実存主義、現象学、構造主義、対話理論など、独語・仏語・露語圏の多岐にわたる思想に立脚点を求めた。東洋思想に関心を寄せる人も少なからず存在したが、その関心は、ヨーガ、禅、太極拳、さらには近年のマインドフルネスにいたるまで、主には実践的なケア技法の創出に向けられてきたように思う。東洋思想に立脚したケア論は、期待されながらもいまだその姿が朧気にしか見えていない観があり、その意味で、「無心」(あるいは「無」)という、東洋思想の根幹にあるものに視点を定め、そこからケアの意味や成立要件を捉えようとする本書は、長く待ち望まれていたものと言えるだろう。

 本書は、七つの章と五つのコラムから構成されていて、「無心(または無)とケア」が多様な視点から論じられている。第一章の「脱学習」や「純粋文節」、第二章の「一/多」モデル、第三章の「まだ見ぬ我が子との別れ」の事例、第四章の『バガヴァッド・ギーター』的援助論、第五章の筆者がワークショップで学生から示された抵抗など、ケア論の本質を突くような論点が多数示される。それゆえに、通読しながら何度も立ち止まらされ、数多くの問いが想起された。中でも、西洋的なケア論においても解が見えていない二つの問いが繰り返し心に浮かぶ。

 その一。「ケア」とは、「ケア者が被ケア者に〈ケア〉を与える」という「一方的な営為」であるか否か。この問いに、本書の執筆者たちは「否」と答えているように読める。「無心のケア」とは「どちらがケアをしているかがわからないような相互無我状態の特徴を持つ」(93ページ)とあるように、ケアを「ケア者から被ケア者への一方的な営為」と見なす考え方(典型が「医学モデル」である)を脱却するための手がかりこそ「無」ではないかという示唆が、本書全体から伝わってくる。ただし、そこに困難なジレンマがある。すなわち、苦しみを抱えているのはあくまで被ケア者であってケア者ではないという、ケア者と被ケア者の〈立場の交換不可能性〉のジレンマである。

 その二。ケアの場において、「無」を探求するのは、ケア者なのか、それとも被ケア者なのか。これについては、本書の論考の中に、「無」を探求するのはケア者の側(の責務)であるとの前提に立つものと、ケア者と被ケア者の両者が手をたずさえて探求すべきだと読めるものとに分かれるように思えた。

 この二つの問いに関連して、心理療法(精神療法)の効果についての興味深い知見がある。すなわち、心理療法の効果は多数の独立した研究によって立証されているが、特定の手法や技術が特定の効果をもたらすというエビデンスは得られていないとの指摘である。もっと言えば、心理療法の効果の源は、方法論的な協働そのもの、つまりケア者とクライアントの双方が、その療法を信頼し、それに取り組もうという気になっていることによって、もたらされるのかもしれない。この仮説が「無心のケア」にも当てはまるとすれば、ケア者と被ケア者とが、ともに「無心のケア」を信頼して、それに取り組むという協働の姿勢を持つことが不可欠だということになる。その際に、ケア者のみでなく、被ケア者もが「無のはたらき」を積極的に求めるように促すかどうかは、技法によって異なってよい。肝心なのは、被ケア者がそのようなケアを拒絶していないということなのだろう。

 第六章で描かれている看護学生の様子は、看護教育の片隅にいる評者にも覚えがある。患者にわかってもらえたという経験と、わかってもらえなかった経験とがともに必要なのだと、どこかで読んだ。特に「わかってもらえなかった経験」の価値に気づくのに、「無心のケア」は示唆的であるように思う。(みやさか・みちお=新潟大学大学院保健学研究科教授・医療倫理学・ケア論)

★さかい・ゆうえん=仁愛大学大学院人間学研究科准教授・臨床心理士。一九七二年生。
★にしひら・ただし=京都大学大学院教育学研究科教授・教育人間学・哲学。一九五七年生。