雑貨の終わり
著 者:三品輝起
出版社:新潮社
ISBN13:978-4-10-353511-9

「雑貨」という概念からこぼれるもの

自分で問いを立て「雑貨化の道程」をたどる

荻原魚雷 / ライター
週刊読書人2020年11月13日号


 何年か前に知り合いのデザイナーが作っているミニコミが売っていると聞いて、東京・西荻窪FALLに行った。それまで何度となく店の前を通りかかっていたが、何の店かわからなかった。ギャラリーなのか。古本屋なのか。その日、わたしは北村太郎のエッセイ集を買った。すると、レジで鎌倉の出版社「港の人」の出版物についてまとめたパンフレットをもらった。

 三品さんは一九七九年京都生まれ、愛媛育ち。二〇〇五年からFALLという雑貨店をはじめた。

「開店してから十数年、身のまわりのあらゆる物がつぎつぎと雑貨に鞍がえし私の店へと流れこんできた。専門店にあったはずの工芸品も本も古道具も植物もみな、雑貨になった」

 著者は「雑貨とはなにか」について考える。否、「雑貨」という概念からこぼれ、はみだすもの——文学、映画、音楽、雑誌、町、記憶、時間などに思索が費やされている。

『雑貨の終わり』を読んでいると、自問自答の多い文章だと気づく。自分で問いを立て、ひたすら考える。その思案中の気怠い感じと読み手を煙に巻く奔放さが心地いい。

「釣りびとたち」と題された短篇小説のようなエッセイがある。

 まず音楽の話からはじまる。家のオーディオの前に座れなくなる。レコードをすべて売り払う。どういうわけか「音楽が他人事のように響きはじめる」。

 わたしも二十年ほど前、そういう症状に陥り、レコードとCDと中学から高校時代にかけて録音したカセットテープなどを大量に処分した。五十歳を過ぎてから売ったレコードを買い直す日が来るとはおもわなかったが……。

 三品さんは「そもそも音楽を愛するとはなんであろう」と自問する。その音楽への問いは雑貨への問いとも重なる。

 先のことはわからない。未来は予測できない。しかし今現在のことだってわからない。その不可解さからくる戸惑い、問いと答えのズレのようなものが、三品さんの文章の妙味となっている。

「釣りびとたち」は、途中、サックス奏者で俳優で画家のジョン・ルーリーが作った『フィッシング・ウィズ・ジョン』というフィッシング・カルト・ムーヴィーの話になる。魚は釣れない。カタルシスもない。イカの超能力? 何それ?

 三品さんはこの映画を観てこんなふうにおもう。

「釣れたり釣れなかったりする干満のはざまで、アングラーたちは退屈さを愛でる方途を見つけだすのである。これはあらゆる趣味や芸術に当てはまる教訓だろう」

 このエッセイでは宮繁さんという釣り好きの大学講師が登場する。彼はスモールビジネスを営む自営業者の話を集めているらしい。実在の人物かどうかは不明だ。宮繁さんは深緑色のミニクーパーに乗っている。ダッシュボードには「九〇年代的」で渾沌としたカセットテープが並ぶ。

「ひとはじぶんの青春時代の価値観を、たやすく普遍的なものだと信じこむくせがある」

 釣り、それから音楽の話が雑貨の話につながる。

 あるジャンルが細分化され、洗練されていく。その過程で熱のようなものが失われてしまうことがある。

 それでも「長いながい雑貨化の道程」をたどる思索に終わりはない。(おぎはら・ぎょらい=ライター)

★みしな・てるおき
=雑貨店主。東京・西荻窪で雑貨店「FALL」を経営。著書に『すべての雑貨』。一九七九年生。