モリッシー自伝
著 者:モリッシー
出版社:イースト・プレス
ISBN13:978-4-7816-1897-5

あなたは病んでいる。

図書館発!こんな本が面白い【書評提供:図書館流通センター(TRC)】

藤井成康 / TRC仕入部
週刊読書人2020年11月20日号


 原書は、ペンギン・モダン・クラシックスから刊行されている。古典、もしくはいずれ古典になるであろう作品を扱っているシリーズで、出版社のモリッシーに対する期待の高さが伺える。しかし、彼はそんなことはどうでも良かったようだ。事は想定内とはいかず、刊行発表から数年待たせた挙句に中止を発表、その後に刊行。日本版にしてもそう、英語以外では読ませないと言いだす始末。面倒な人だと思う。ステージと客席、スピーカーと耳といった適度な距離が保たれている我々はまだ良い。想定外の出来事を、モリッシーなら仕方がないとして楽しむことが出来るからだ。アメリカのフェスでは、肉を焼く匂いがするという理由で、彼はヴェジタリアン、出番を早々と切り上げた。フジロックは大トリであるにも関わらず直前でキャンセル。横浜公演もステージが小さいという理由で前日にキャンセル、わたしはこの日のチケットしか持っていなかった。Supreamの顔になった時でさえ、写真が気にくわないから甥が撮ったものと変えろと要求。結局、本人が嫌がった、弱き卑屈な男の被写体が表参道、渋谷や原宿を支配したわけだが、まあ、モリッシーを取り巻く世界というものは我々が知る世界ほど単純ではないようで、彼と仕事を共にする方々は気苦労が絶えないであろう。

『モリッシー自伝』は、目次がなければ章立てもされていなく、解説や後書きもない。スティーブン・パトリック・モリッシー、ザ・スミスのヴォーカルとして4枚のアルバムを発表したのち、ソロとして11枚のアルバムを発表、今日に至る。アイルランドからの移民家族としてマンチェスターで生を得て、工業地帯として繁栄した街が如何に退屈かを、あらゆる表現でもってこき下ろすことから本書は始まる。退屈な街、退屈な学校、マッチョな先生は、若きモリッシーを陰鬱な状況へと追い込んでいく。思春期を迎え、音楽に出会うあたりは、ザ・スミスに洗礼を受けた、受けなくてもあなたの趣味趣向にロックがあれば、楽しめるに違いがない。デヴィッド・ボウイにT・レックス。ニューヨーク・ドールズ、パティ・スミスにラモーンズ、本国では音に服を融合させたパンクが勃発、セックス・ピストルズが可憐に登場したことで、モリッシーの心情は否応にもかき乱されていく。自身が何者でもないことに苛立ち、何者かでありたいともがく様は、10代を苛立ちと共に過ごしてきたあなたならきっと共感出来るであろう。セックス・ピストルズのマンチェスターでの初ライブ。観客はたったの42人だったが、後にバンドマンとし活躍する人たちがこぞって集結したという情景には色めき立つし、ザ・スミスのギターリストとなるジョニー・マーとの出会いは物思いに耽る時間の始まりだ。このあたりは、モリッシーを題材にした映画「イングランド・イズ・マイン」でも描かれている。彼の家のドアをノックする瞬間から始まったザ・スミス。文学的であり、自虐的であり、社会や王室批判を盛大に歌った彼らは、既存の音楽に飽き飽きしていた若者立ちを夢中にさせていく。インディレーベルの雄であるラフトレードとのやり取りに苛立ちを見せるも、バンドは順調で、アルバム作成時におけるバンドメンバーへの称賛の数々は、再結成に向けた布石ではなかろうかと勘ぐってしまう。自身の思いとは裏腹にバンドは解散、ソロとして活動していくことへの決意。その最中における裁判沙汰は、ザ・スミスにおける金の分配が不平等であったと元メンバーから訴えられる、自身の人生における最大の汚点なのであろう、数ページに渡って執拗に攻め立てていく。かねてより噂されていた自身の性趣向についても言及、ホモセクシャルではなくヒューマセクシャルであるとの告白は興味深い。敗訴後のアメリカ生活を経て、ソロが絶頂期に突入していくあたりは、どの文章も躍動的であり、心身がもっとも充実していた時期なのであろう。

 本書を手にした人は、幸とも不幸とも言えぬ一時を過ごしたはずで、出版することの意義が手にした者たちを夢中にさせることであるのなら、その意義は達成したと言える。刊行中止が発表されても諦めることなく交渉を続け、出版にまでこぎつけたイースト・プレスさん、並びに400ページを超えた文章を見事な形へと導いた翻訳者上村彰子さんに感謝の意を述べたい。