水晶内制度
著 者:笙野頼子
出版社:エトセトラブックス
ISBN13:978-4-909910-07-3

祝・復刊!! !!
ディストピア日本に戻ってきた奇(跡の)書

図書館発!こんな本が面白い【書評提供:図書館流通センター(TRC)】

真野春奈 / TRC自治体史編さん支援本部
週刊読書人2020年11月20日号


 現実社会を見透かすラディカルな作風で知られる笙野頼子氏の名著が、17年ぶりに復刊した。この間のロリコン文化やバックラッシュの加速、原発事故といった現実を予見したかのような著者の巫女ぶりに、改めて戦慄させられた。世界的にブームのディストピア/フェミニズム文学の先駆けでもある。

 物語は、原発を受け入れるかわりに日本から独立した女人国「ウラミズモ」に移住した作家「私」の視点で展開する。日本を反転したウラミズモには性愛が存在せず、男に人権がない。女は「ただただもう女であるというだけ」の存在だ。有能な女性事務員が男の上司から「俺の秘書」扱いされず、中年女が意見しただけでヒステリーと言われず(ウラミズモでは「オステリー」と呼ぶ)、男の真似をしなくても仕事ができる国。電車は快適、夜道は安全、育児も保証される。ウラミズモに移民してくる女性の多くは芸術家や技術者で、会社員や公務員は少ない。後者は男社会に染まりやすいからか。

 このように日本の異常さが際立つなかで、最も鋭く示されるのが、女が見えなくされてきたという点。つまり排除だ。そこで国の原初に立ち返るべく、「私」は出雲神話を書き換え、ウラミズモ建国神話を執筆することになる。それは、歴史、宗教、民俗、哲学、芸能……あらゆる面で国を検討する途方もない旅路だった。

 その過程で指摘される「自分たちの精神の問題を手を洗ったり掃除をしたりするという程度の衛生思想といっしょくたにして強迫観念にしてしまった」「都合の悪いものを見ないふりし、自分の責任であるものを人ごとのように、汚いとか言っていなくてはならないシステム」は重要だ。これこそが「見えなくする力」の源泉にして、差別の根源にあるケガレ思想だからだ。

 もっとも、女だけに都合のいい書き換えは、「正史」の暴力性や、差別を温存するという国家の本質もほのめかす。書くことの権威性、恣意性はやがて、記憶があいまいだった「私」を苦しめていく。そんなときに頻出する「うわーっ。」という叫び。これは、「私」がタブーに触れたり、圧力を受けたりしたことを思わせ、禁忌を破り、冷笑に怒り、虚無を葬るための叫びなのだと私は理解した。「私」の行ないとは、あったものをなかったことにする国の罪を滅ぼすための、壮大な思考実験だったのかもしれない。

「歴史のif」を考えることは本来、複雑きわまりない大事業のはずだ。どの武将が勝っただの、あの戦略で志士が生き延びただのチンケな話ではない。「正史」を問い詰めるのが歴史学なら、現実を明察しつつも歴史を洗い出した本書は、文学だからできた偉業である。

 巻末の書き下ろし自著解説も真摯で激熱だった。自分の怒りや悲しみの底に忠実であろうとする視点は、濁りなき水晶のよう。混沌に満ちた読後感に困惑した人は、解説の最後にある「特別な読み方」を試してほしい。私は実践したら、「うわーっ(驚嘆)」となった。