ルクレティウス 『事物の本性について』 愉しや、嵐の海に
著 者:小池澄夫
出版社:岩波書店
ISBN13:978-4-00-028304-5

「逸脱」を含んだ解釈行為

病人や死人の痛ましさ、悲惨さを直視せよ

小林卓也 / 大阪大学大学院人間科学研究科招へい研究員・フランス現代思想・記号学
週刊読書人2020年11月20日号


 本書は、二〇一一年に逝去された小池澄夫氏の遺稿(第Ⅰ部第一章、第二章)を瀬口昌久氏が書き継いで完成したものである。遺稿の末文「それでは、次は写本と文献学者の話をしましょう」を受け、本書第三章では、ルクレティウス『事物の本性について』の写本の系譜が詳細に辿られる。ストア派やキリスト教による「淫蕩と快楽に耽る無神論」という度重なる批判、さらには、高価な羊皮紙を再利用すべく、古典写本の文字が消された「過酷な書物の淘汰の時代」をも逃れ、ルクレティウスの詩作が残存したのはなぜか。それは、厳格な詩の韻律が改変を許さなかったこと、また、正しく写経することがラテン語の訓練となると考えられたからである(散文で書かれたエピクロスの作品は淘汰された)と回答することで、本書は小池氏の企図に正当に応えている。

 このような本書の構成を、エピクロスの原子論を継承したルクレティウスに重ねることはたやすい。しかし、本書の根幹には、ルクレティウスの思想はエピクロスの単なる注釈ではないという瀬口氏の確信がある。第Ⅱ部第三章では、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』に残るエピクロスの文献において、原子を表す用語が「アトマ」(不分割)、「ストイケイア」(構成要素)、「スペルマ」(種子)に限定されているのに対し、ルクレティウスは、「アトマのラテン語訳であるindividuaやatomiという語を一度も使って」(二一五)おらず、少なくとも九種類の語を用いて多様に表現していると指摘される。これは、物理的世界にとどまらず、「エピクロスが語り残した自然界の生命現象を原子論によってより積極的に解明する」(二二一)ことを企図するがゆえであり、さらにルクレティウスは、魂に感覚と思考をもたらす第四のアトムを付け加えることで、原子は形と重さと大きさ以外の属性を持たないとするエピクロスの原理からも結果的に「逸脱」することになる。

 このルクレティウスの挙措を反復するごとく、瀬口氏は、原子の逸脱、すなわち、「クリナメン」に関する小池氏の解釈に疑義を呈する。空虚のなかを交わることなく垂直に落下し続ける原子にあって、事物を生み出すべく原子の衝突を生じさせる極小の逸れをクリナメンと呼ぶ。小池氏は、「クリナメンとは衝突を可能にするものではなく、結合した原子と原子を解放する運動だと」(一九七)解釈する。しかし瀬口氏は、ではなぜルクレティウスは原子の分離や解放について記述せず、あえて「逸れる」と表現するのかと疑問を投げかける。思想の正当な継承とは、先行するそれの単なる引き写しではなく、必然的に「逸脱」を含んだ解釈行為であることを本書は教えている。

 ところで、『事物の本性について』最終章は、気象現象および地震についての記述を経て、疫病による人々の死、アテナイの神殿を埋める死体の克明な記述で終わる。死の恐怖を喚起し、精神の動揺を誘う神話を退ける原子論にとっては、当然ながら、いかなる死も不生不滅の原子への解体、霧散に過ぎず、恐れるに足りない。しかしながらルクレティウスは、血を滴らせ、悪臭を放ち、痙攣しつつ横たわる病人に親身に付き添う者が直ちに伝染し死に至り、反対に、「自分の生に貪欲に執着し、死を恐れ、/病気の近親を看取るのを嫌がった者たち」(二六五)もその報いから同様に打ち捨てられ死んでいく様を、「痛ましく心を苦しめること」(二六四)であるとも言う。死を恐れぬことと、眼前にある悲惨さから目を背けることは異なる。本書あとがきにある、小池氏が逝去される前日、瀬口氏が面会に訪れた病室のテレビ画面に、三日前に起きた東日本大震災による津波の映像が流れていたように、災害や疫病は幾度も繰り返し、その都度無数の死体を積み重ねる。ルクレティウスの作品は、コロナ禍の私たちにもまた、感染者数や死者数によって日々覆い隠される病人や死人の痛ましさ、悲惨さをこそ直視せよと諭してはいないだろうか。(こばやし・たくや=大阪大学大学院人間科学研究科招へい研究員・フランス現代思想・記号学)

★こいけ・すみお(一九四九―二〇一一)=元滋賀大学教授・西洋古代哲学史。著書に『イデアへの途』など。

★せぐち・まさひさ=名古屋工業大学大学院教授・西洋古代哲学史。著書に『魂と世界 プラトンの反二元論的世界像』『老年と正義 西洋古代思想にみる老年の哲学』など。一九五九年生。