PUBLIC HACK 私的に自由にまちを使う
著 者:笹尾和宏
出版社:学芸出版社
ISBN13:978-4-7615-2719-8

公共空間をどう使うか?

図書館発!こんな本が面白い【書評提供:図書館流通センター(TRC)】

宮田祥一郎 / TRC中四国支社
週刊読書人2020年12月11日号


 細田守監督のアニメーション映画の傑作「時をかける少女」は、高校生の男女3人が空き地で野球をするシーンから始まり、ラストも空き地で野球をするシーンで終わる。この映画の空き地は、整備された運動場のような場所なのだが、自分の子ども時代も、家の近所にこのような空き地があったことを思い出す。空き地で野球やサッカーをしたり、車の少ない道路で缶蹴りやケイドロをしたことを思い出す。最近は子どもたちが道路で遊んでいる光景をあまり見ないが、以前は空き地や道路などの公共空間が、子どもたちの遊び場だった。子どもたちは「まちのスキマ」を私的に自由に使って遊んでいたのだ。

 本書が指摘するのは、公共空間が整備されることで、公共空間の使い方が規定され、色々な規則ができて、それが却って公共空間の利用を窮屈にしているということである。例えば、空き地が公園に整備される。それは結構なことだが、公園ではボール遊びが禁止される、スケートボードが禁止される、楽器演奏が禁止される、飲酒が禁止される、という具合である。

 著者の笹尾和宏氏は、市民が「まちのスキマ」を使って公共空間を楽しみ、公共空間の魅力を再発見することを提案している。例えば「チェアリング」は、アウトドア用の椅子を、眺めの良い場所に置いて、お酒を飲むことである。「クランピング」はもっと手軽に、欄干などに板を取り付けて、立ち飲みすることである。その他にも、「ストリートダンス」や「青空カラオケ」など、当初は想定されていない、公共空間の私的で自由な使い方を提案している。

 市民が私的に自由に公共空間を使うと、迷惑行為につながり、市民の摩擦が起きるのではないかとの危惧がある。しかしながら、日本にはお花見という模範的な習慣がある。お花見のように、市民がデリカシーと寛容性を持って公共空間を使うことで、却って市民の出会いや多様性が促進され、それが都市の創造性やイノベーションにつながると、笹尾氏は指摘する。

 一方、管理者に都合の良い規則で公共空間の使い方を規定して、管理者が認めた人だけが公共空間を使うようになると、公共空間は選ばれた人だけが利用できる、会員制の空間のようになってしまう。奇しくもコロナウイルスが拡大する中で自粛警察が出てきたように、公共空間が想定外の使われ方をすることに通報や苦情を申し立てる人たちばかりになると、社会の柔軟性や多様性は失われ、戦前の日本のような管理社会になる可能性がある。

 まちは再開発され、リニューアルされていくのだろうが、その公共空間をどう使うか。工場夜景がブームとなったように、身近な公共空間の魅力を再発見し、楽しんでみてはどうだろうか。