吉本隆明『マス・イメージ論』を読む
著 者:宇田亮一
出版社:小鳥遊書房
ISBN13:978-4-909812-41-4

原理的著作の魅力を解読

「現代」ではなく「現在」にこだわる理由

先崎彰容 / 日本大学危機管理学部教授・近代日本思想史・日本倫理思想史
週刊読書人2021年1月8日号


 一九八〇年代を活写した『マス・イメージ論』を、二〇二〇年に読む意味とは何か。著者の問いはここから始まる。吉本隆明は八〇年代と、それ以前とは断絶した、全く新しい時代の到来だと考えていた。「『現在』という作者ははたして何者なのか」という問いを立てた吉本は、明治維新以降、ひたすら物質的豊かさを追求してきた「工業社会」が、この時期一定の成功を収め、八〇年代は精神の飢餓が襲う時代になったと考えている。大変面白いのは、吉本を徹底的に読み込んでいく著者の宇田氏が、なぜ吉本が「現代」といわず、「現在」と言ったのかにこだわっている点だ。

 人事労務担当の企業人として働き、サラリーマンの精神疾患を目の当たりにした著者は、その後、臨床心理の世界に飛び込んだ。その際、様々な症例を見ながら、吉本隆明の著作を初期作品からずっと追いかけ続けてきた。その結果、『共同幻想論』や『心的現象論序説』といった初期作品と、『マス・イメージ論』など後期の作品には、一定の共通したモチーフが存在することに気づく。「現在」という言葉を例にとれば、そこには過去を引きずった「現代」が侵食する場面と、「現在」が「現在」のまま、バラバラに存在する場面、さらには未来の時間とつながっている「現在」の三つを想定することができる。著者宇田氏は、この「現在」をめぐる三類型を、個人幻想と共同幻想を参考に読み解いてみせる。うつ病とは、個人幻想の中に共同幻想が侵入することで感じる「生きにくさ」のことであり、統合失調症は侵入された個人幻想が、共同幻想によって破砕され砂粒化した病理であり、発達障害は逆に共同幻想が欠如していることによる、個人幻想への自閉症状をさしている。そしてこの初期作品から導きだされたモチーフが、『マス・イメージ論』においては複数の文学作品やサブカルチャーを用いて変奏されていくのである。

 具体的に内容に即してみていこう。『マス・イメージ論』に徹底的に寄り添い、深い読みを進める本書は、何よりも分かりやすい点に特徴がある。例えば冒頭の「変成論」で取り上げられるカフカ『変身』について、巨大な毒虫に変身してしまった主人公が、他人の前に出た瞬間、家族もまた肉親の愛情を放棄することに注目する。ここには共同幻想が対幻想(家族)を解体する瞬間が描かれていると指摘し、後期の著作が前期の問題関心につながっていることを分かりやすく教えてくれるのだ。

 また「停滞論」では、吉本がなぜ「反核平和運動」に違和感を表明したのかを読み解き、そこに「倫理」への懐疑的関心があることに注目する。それは吉本の戦争体験に始まり、後の原発反対運動への違和感の表明にいたる吉本の一貫した立場があることを理解できる。後半の「地勢論」では小島信夫の小説に「沈黙のメッセージ」を読み取り、それが『言語にとって美とはなにか』の自己表出・指示表出の問題系にあることが示される。表面的な意味を超えた沈黙に込められたメッセージ、言外のニュアンスが人間にあたえる重要性への着目が、ここには書かれている。

 吉本がいかに「現在」に興味を抱きつつ、時事論に堕すことなく、言語論や精神分析にまでつながる思索を試みていたのか――二〇二〇年にまで届く原理的著作の魅力を余すことなく読解した良書である。(せんざき・あきなか=日本大学危機管理学部教授・近代日本思想史・日本倫理思想史)

★うだ・りょういち
=臨床心理士・一般社団法人SPIS研究所理事長。著書に『吉本隆明〝心〟から読み解く思想』『吉本隆明「言語にとって美とはなにか」の読み方』など。