幻のえにし 渡辺京二発言集
著 者:渡辺京二
出版社:弦書房
ISBN13:978-4-86329-212-3

底が知れない九〇歳の「素顔」

えらびぬかれた本質的な言葉、示唆に富む対談・講演

三砂ちづる / 津田塾大学学芸学部教授・疫学
週刊読書人2021年1月15日号


 渡辺京二の本を読む人は、それぞれに、毎ページにつけるほどに大量の付箋をつけ、文中に線をひき、忘れられない言葉を残されて、日々を過ごすことになる。「一人の人間が生きて死ぬなかで、どんな悲惨な死でも、それは自分で選び取ったんだという見地。極端な話ですが、ナチスのガス室に送り込まれても、自分で選びとった生は手放してはいないんだ、というような見地をどう作りあげるか」(『近代をどう超えるか 渡辺京二対談集』弦書房、二〇〇三年)。一番好きな渡辺京二の言葉の一つだ。どのようにあっても、自分で選び取った生を手放さない。その言葉を抱いて、生きる。この言葉は、対談の場で発せられた言葉であった。

「逝きし世の面影」、「黒船前夜」、「バテレンの世紀」など、豊富な資料が物語としてえがきなおされる、みずみずしくも重厚な歴史著述、「荒野に立つ虹」、「万象の訪れ」、「さらば政治よ 旅の仲間へ」など、言葉遣いのまことに行き届いた、いぶし銀のようなエッセイ、読むこと、書くことで生きてきた渡辺京二の文章にふれることは、それだけで十分に喜びに満ちた体験なのだが、同時に、ことば自体がえらびぬかれ、本質に届くものであるがゆえ、語りの名手、ともよばれており、対談や講演は、実に示唆に富む。

 そのような人が、九〇歳になって出した発言集である。二〇一八年二月に亡くなった石牟礼道子についてのいくつかの語りから始まる。著者は編集者として、秘書として、あらゆる面から石牟礼道子を半世紀にわたり支えてきた。石牟礼道子という天才は、自分なしにも十二分に変わらぬ仕事を成し得た人だ、とあちこちで著者は語っているものの、天才は、天才を支え、天才を語り、天才の身の回りを世話する人がいてこそ、天才として生きられる。まことに著者の献身こそが、石牟礼道子を最後の最後まで仕事をした天才的創作者としてあらしめ、同時に著者の思索をも磨いた。

 書名である「幻のえにし」は、「生死のあわいにあればなつかしく候 みなみなまぼろしのえにしなり……われもおん身も、ひとりのきわみの世をあいはてるべく なつかしきかな……」とうたう石牟礼道子の残した詩に由来している。えにし、つまりは縁とは、生と死の間でつながれていくものの、それは幻だ。幻であっても、自らがつなごうとするその意思だけで、何かが生まれる。著者は、一人ひとりが読み、何かを書くことで石牟礼道子との縁を繋いでもらいたい、という。まことに、えにし、は、自ら求めて繋いでゆくもの、相手次第ではない、ただ、自分次第なのである。死にも関わらず、繫ぎ続けられるものである。

 続いて、ジブリの雑誌「熱風」に掲載されたロングインタビュー、さらに再度「熱風」掲載の、今をときめく鈴木敏夫ジブリ・プロデューサーを相手にしてのファンタジーについての話、いまや熊本の文芸中心である橙書店店主であり、著者が創刊した文芸誌「アルテリ」編集の中心にいる田尻久子を相手とするロングインタビューや、坂口恭平を聞き手とする熊本の文芸の話など。吉本隆明や谷川雁に関する、著者ならではの記述は、今後重要な研究資料ともなってゆくだろう。聞き手がかなり踏み込んだ質問をしているから、渡辺京二の「素顔」がほのみえてくる。確かに本の帯には「素顔の渡辺京二」と書いてあるのだが、みえているのか、ほんとうに?

 日本は、大国、一流国になる必要は何もない。国家レベルにおいてはしゃしゃり出る必要もないが、自分自身は最低限の義務は果たさないといけない。税金を払う必要も責任もあるけれど、でも、その程度にしておきたい。幸せは、国とは関係ない。国がどうであろうが、自分の生活、個人の生活は、国家と関係がない。自分の頭で考え、自立した人間であるということ……。さて、どういうことか。ぜひ、本文を読んでもらいたい。

 九〇になろうが、この人のそこはまだ知れない。もっとみせてもらいたいことがある。長生きしていただかなければならない。素顔など、まだ、みえてはいないのである。(みさご・ちづる=津田塾大学学芸学部教授・疫学)

★わたなべ・きょうじ
=日本近代史家。熊本市在住。著書に『北一輝』(第三三回毎日出版文化賞)『逝きし世の面影』(第一二回和辻哲郎文化賞)『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』(第三七回大佛次郎賞)『バテレンの世紀』(第七〇回読売文学賞)など。一九三〇年生。