島のことだま 森口豁 八重山セレクション
著 者:森口豁
出版社:南山舎
ISBN13:978-4-901427-53-1

森口の言霊の織られてゆく長い旅路

八重山を「鳥の目」「虫の目」で見る

下嶋哲朗 / ノンフィクション作家・画家
週刊読書人2021年3月19日号


 ジャーナリストの森口豁は本書に、自分が悪性リンパ腫に冒されていることを告白して、その厄介な病の進行との闘いを、現在ヤマトに侵されつつある(軍事基地)八重山に重ねるところから始める。記者には必然がある。だからこの書き様にまず驚く。
 
 この場合の必然は対象を不偏公平に観察すること、すなわち記者の法則である。これを森口は「『鳥の目』の俯瞰」と言い表す。

 だが病は自分の内面を観察対象とする契機でもある。これは意識がする。そして法則は意識の介入の排除につとめる。これがときにジャーナリズムをダメにし、延いては政治と社会をダメにすることになる。八重山、沖縄は法則の餌食になっている。この状況は目に見える。――見える八重山を見る。これが本書の一本の柱となる。

 いっぽう意識は内心の自由であるから、法則に沈黙させられはしない。これを森口は「『虫の目』で地面をはいずり回る」と言い表す。八重山を意識で観察すると、法則に見える八重山とは全然別の八重山がある。けれどこれは内心だから、目に見ることはできない。――見えない八重山を見る。これが本書のもう一本の柱となる。

 森口は「酷暑の中でいつ終わるともなくつづけられる舞や武術の中に、島びとたちの祈りの深さを見た」のだが、森口のなにがその深さを見たのだろう? 「私はずいぶん前からある種の負い目を抱き続けてきた」。カンヌのテレビ映画祭等で受章したほどの作品が、観察対象の島びとたちに「島の恥さらしだ」などと猛反発を喰らったのだ。それに「駆け出しのテレビマンとしてスタッフに加わっていた」のだが、「『ある程度の誇張』や『再現』は許されると考えた」。「離島こそが米軍統治下のひずみを一身に背負わされているのでは〔…〕こうしたスタッフの共通認識があった」。「真に恥ずべきは〔…〕為政者の方」だと。取材の側とされる側との不偏公平、つまり「双方納得できる番組はつくれるか?」右はできない証明であろう。鳥の目の俯瞰(法則)と這いずり回る虫の目(意識)は矛盾する――鳥はエサの虫をまさぐっている。虫は鳥についばまれて初めて、シマッタ、と思うのだ。

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 それから数十年後。森口は怒らせた島を人をふたたび訪ねると「もう覚えていないさあ。それよりも、よくぞまた(こんな島に来てくれたね)」といって笑ったという。「おじいはきっと覚えているに違いなかった。私はその心根がうれしかった」。

 和解には時間が関与する、がもう一つある。森口はその時間によって虫の目を獲得し、法則はその背景に退いて、しかし存在している。この矛盾する二つの目になる書き様にときに戸惑うのだが、その響き合いに聴くものこそは「島人たちの祈りの深さを見た」もの、森口の「言霊」であろう。本書は著者の一九五九年いらいの八重山の島訪いを三章三十節にまとめたもの――森口の「言霊」の織られてゆく長い旅路の総集編である。

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 島を旅する森口の目は政治、経済、軍事、暮らし向き、文化、つまり島人たちの生活の全分野を俯瞰し、這いずり回っている。この二つの目に同調するものには、見えないものが見える。「僕らには日本から学ぶことは何もない。ぼくは日本がアジアから学ぶ場をつくることを考えている」(西表島の石垣金星)に違和感は感じない。森口はといえば「すっかりヤマト嫌い」になっている、つまり沖縄から自由ではなくなったのだ。この意味を解する読者もまた程度はあろうが、沖縄から自由ではなくなっている。自分のヤマト、を意識するようになったのだ。

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「あとがき」の終行には遺書のようにこうある。「この本を手に取ってくれたあなたへ――沖縄を八重山をよろしく」。森口豁の生き様は、八重山の沖縄の生き様の写しでその逆でもあるとおもう。――どっこい生きているのだ。そこで氏の娘さんのあるときの口上がおもいだされる。

「あたしのおやじはシヌシヌさぎだ!」

 幾度も死の予告を世間にしておきながら、そのつどどっこい、しぶとく生還してくるのである。(しもじま・てつろう=ノンフィクション作家・画家)

★もりぐち・かつ
=ジャーナリスト。琉球新報記者や日本テレビの沖縄特派員として、沖縄問題を伝えつづけた。著書に『だれも沖縄を知らない 27の島の物語』など。一九三七年生。