数学的真理の迷宮 懐疑主義との格闘
著 者:佐々木力
出版社:北海道大学出版会
ISBN13:978-4-8329-8238-3

数学は非経験的科学か否か

近世から現代にかけての数学観の展開を論じる

金山弥平 / 名古屋大学名誉教授・西洋哲学史
週刊読書人2021年3月26日号


 本書は、2020年12月4日に他界した佐々木力の最後の著作(12月10日発行)である。「懐疑主義との格闘」を副題とし、第1部「真理という迷宮―数学と懐疑主義」では近世から現代にかけての数学観の展開を論じ、第2部「古代ギリシャにおける理論数学の成立と数学革命論」では、第1部の歴史的展開を、ギリシャ古代における公理体系の確立とトーマス・クーンの『科学革命の構造』という、より大きな枠組みの中に位置づける。

 総頁256頁の中で最も長いのは、101頁にわたる第6章「エウクレイデース公理論数学と懐疑主義」である。数学は、非経験的科学か、それとも経験的要素も含み、クーンが提唱するような科学革命を受け入れうるものか。エウクレイデース(ユークリッド)『原論』の公理論体系の起源を、反経験主義的哲学のエレア派に求めるサボーに対して、著者は、W・R・クノールやG・E・R・ロイドらの古代ギリシャ科学史の碩学の見解から出発し、より大きな文脈としてブルクハルトやヴェーバーの文化史的・社会史的研究を考慮に入れ、ギリシャ哲学に特有の懐疑主義的思潮と、それを促した「アゴーン」(競争)の精神こそが、公理体系の確立に大きな寄与をなしたと結論づける。著者によれば、科学研究は社会と完全に切り離して遂行されるものではなく、その点では数学も例外ではない。後にアカデーメイア懐疑主義へと展開するプラトン的対話もアゴーンの精神に貫かれており、それがギリシャ数学の公理体系の確立を促したのである。

 科学史家としての著者の研究の基盤は、東北大学時代に培われたギリシャ古代哲学への理解と、プリンストン大学大学院でのクーンの下での研鑽にあった。クーンの「歴史的科学哲学」のプログラムを数学史に適用する本書の発想の起源もその時代に遡る。第7章で著者は、クーンの講義への著者のリポートにこの大家が寄せてくれたコメントの一部を引用する。「私は貴君が書いたことに関心をもった。……私は数学における革命は存在するにちがいないと思う。だが、……数学の旧い定理のすべてが保持されるのがどの程度なのかについて説明することに困惑している」。引用元のコメントの全文の写真も本書に収録されているが、そこにはクーンの厳密な研究姿勢と、日本からやってきた若き著者への優しい期待が見て取れる。

 著者はまたプリンストン時代、図書館で懐疑主義者セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』第1巻の藤澤令夫訳にも出会う。かくして、当時30歳の著者は、クーンが自分も説明に困惑していると述べる問題に対して、ギリシャの懐疑主義的思潮という導きの糸を得、迷宮の歩みを開始する。本書は、その道行の現時点での到達点を示すものなのである。

 第1部の五つの章は、迷宮脱出のいくつかの試みを描き出す。最初に来るのがルイス・キャロルの二面性である。少女アリスを主人公とする童話で名高いこの作家は、本名のドジソンとしては、ユークリッド公理体系の確実性を信じ続けたオックスフォード大学の数学講師であったが、童話作家ルイス・キャロルとしては、数学と他のゲームの間に実質的差異が存在しない世界を自由に楽しむ。古典幾何学の確実性とそれに対する疑いのせめぎ合いは、続く四つの章でも、パスカル、モンテーニュ、デカルト、ライプニッツが採った立場の検証という形で、具体的に興味深く描かれる。また第1部の後には、後期ウィトゲンシュタインを扱う「基礎づけのない多様な数学的知識」の中間考察が置かれ、第2部への橋渡しをする。

 第7章で「私は、クーン教授が、現在の私の数学における革命概念を支持するかどうかについては、最終的にはわからない」と告白する著者は、本書を構成する諸論考を発表した後も、中国の科学と数学を考慮に入れることにより、迷宮の歩みをさらに進めていった。その成果の一つが、2018年の国際会議記録「新しい科学の考え方をもとめて―東アジア科学文化の未来」(『アリーナ』特別号2020年)であるが、これを編纂した後の著者の迷宮の歩みはもはや目撃できない。惜しんでも余りあることである。(かなやま・やすひら=名古屋大学名誉教授・西洋哲学史)

★ささき・ちから
(一九四七~二〇二〇)=科学史家・科学哲学者・数学史家。東北大学理学部および大学院で数学を学んだあと、プリンストン大学大学院で学ぶ。東京大学教授などを務める。著書に『科学革命の歴史構造』『マルクス主義科学論』など。