路傍の反骨、歌の始まり 姜信子×中川五郎 往復書簡
著 者:姜信子・中川五郎
出版社:港の人
ISBN13:978-4-89629-388-3

動きながらの言葉

他者を理解する。祈りを共有する。歌い、語り、旅をする

福間健二 / 詩人・映画監督
週刊読書人2021年4月16日号


 姜信子と中川五郎の往復書簡。二〇一六年から二〇二〇年まで、詩人ミュージシャンの末森英機のホームページ「声のない番犬」に連載された書簡に書き下ろしを加えてまとめたものである。

 二〇一六年は、熊本地震の年。姜信子による第1信「千年狐のように、みずから歌声をあげて」は、熊本に住んだことのある彼女が、熊本をゴールにした旅の準備のなかで書いている。その旅は、祭文語りで三味線弾きの渡部八太夫たちによる、彼女が台本を担当した石牟礼道子『水はみどろの宮』の歌い語りの会のツアーだ。人とともに動き、人に出会い、なにかを生みだしていく旅。「歌って、祈って、おまつりをして、世界はもう一度生まれ変わる、そんな場を私たち自身がそこに集まった人々とともに開いてみよう」というのである。

 姜信子は、その出発点から、ただ本を書くという作家をこえた活動をおこなってきただろう。書くことがつねに旅とつながっている。その意識は、第3信「もっとも無力で、もっとも孤独な地にこそこの世を救う祈りはある」で語られているが、二〇一一年の東日本大震災のときに感じたことによって、さらに動いた。何に心を寄せるのか。何を追うべきなのか。観察者的な言い方を許してもらえば、その感じる力は、いよいよ後戻りできないところに踏み込んでいる。

「歌の旅人五郎さん、この手紙がお手元に届くころには、五郎さんはこの世のどのへんを漂っているのでしょうか」と姜信子に呼びかけられる中川五郎。彼こそは、歌手で翻訳家でもあり作家でもあるといった肩書きをこえて、評者の見るところでは、3・11以降、権威的なものと密通することなく自前で、その本気さを更新している数少ない同世代の表現者のひとりである。

 彼がいま、かつて全詩集を訳したボブ・ディランの「風に吹かれて」をどんなふうに歌うことができるか。そして、本書でも語られる、一九二三年の関東大震災後の出来事を直視する「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」や「真新しい名刺」などのバラッドで、いまの日本の何にどう挑もうとしているか。知らない人は、YouTube に映像がアップされているのでぜひ見てもらいたいが、劣勢と遠まわりをむしろバネとするような「人間を信じる」がそこにはある。大端折りで言ってしまえば、日本のフォーク、中川五郎が残ったのである。

 姜信子は、従来のメッセージソングについて、集まった人々がメッセージのもとに「ひとかたまり」になることへの疑問を言う。それを受けて、中川五郎は、六〇年代にアメリカのフォーク・ソングから受けた影響と新宿駅西口の地下広場からはじまったフォーク・ゲリラに感じていたことを語る。「ひとかたまり」になるのとは違う、個と「みんなで一緒に」の出会いを可能にする力を歌は自然にもつ。これからさらにどんな歌い手になりたいかという希望に重ねてそれを言う中川五郎には、打開すべきことが見えている現在がある。本書を読みすすんで、まず、うれしかったところだ。

 両者のやりとりは、こういう性格の本なら当然の、たがいへのオマージュと自身の活動報告とともに、二人が敬意を抱いてきた表現者たちを次々に呼びおこしていく。声に出して読むように指示される箇所もあるが、それがなくても何度も反芻したくなる引用があり、半端じゃない注がある。

 他者を理解する。祈りを共有する。そこから二人の言葉が生まれているのがよくわかる。それは、歌い、語り、旅をするという活動とともにある言葉、動きながらの言葉である。新型コロナウイルスの感染が拡大するなかでの、書き下ろし部分で、二人は新たな旅への出発を誓いあう。プロテストよりも大切なこととして、自分のためだけに生きるのではない未来へと誘う力をもつ本だ。(ふくま・けんじ=詩人・映画監督)

★きょう・のぶこ=作家。著書に『ごく普通の在日韓国人』(ノンフィクション朝日ジャーナル賞)『平成山椒太夫 あんじゅ、あんじゅ、さまよい安寿』『現代説経集』など。一九六一年生。
★なかがわ・ごろう=フォークシンガー・音楽評論家・小説家・エッセイスト・翻訳家。アルバムに『終わり はじまる』、著書に『七〇年目の風に吹かれ 中川五郎グレイテスト・ヒッツ』、訳書に『ボブ・ディラン全詩集1962-2001』など。一九四九年生。