アナキスト本をよむ
著 者:栗原康
出版社:新評論
ISBN13:978-4-7948-1167-7

お前はどんな踊りを踊っている?

天国の高見順先生も鼻血ブーだぜ、まったく。

陣野俊史 / 書評家
週刊読書人2021年4月16日号


 アナキズムの研究者、栗原康の書評を集めた本だ。書評を集めた本を書評するのは、いささかタイヘンだ。そもそもそんな本を作る人は幸せ、というか、例外的な存在で、書評集の体裁の単行本は、いまあまり出ていないのではないか。一冊をとことん討議するでもなく、様々な媒体に著者が発表してきた短文(短くないものもあるが、ほとんどの場合は原稿用紙数枚程度の短いもの)を集めた本は、著者の色合いがはっきりと出ていないかぎり、評価しづらいし、場合によっては通読さえ困難になってしまう。その点、栗原の色は存分に出ている。文芸評論ではない。あくまで書評。読む相手(この場合は「作品」)の内側に入り込み、相手を組み替える。このあたりのことを、栗原は「はじめに」でうまく書いている。

「ちなみに、だいじなのはどんな表現も自分一人でやるものではないということだ。というか、自分を自分で壊せるとおもったら大まちがいだ。わたしなら、論じる相手がいればこそ。はじめから自分の正しさをふりかざし、相手を客観的に評価するのでは意味がない。それでは一人でやっているのとおなじことだ。そうではなくて、なるたけ相手の懐にもぐりこむ。その潜在的な力を極限までひろげる。そうしようとシャカリキになってみる。やっているうちに自分か相手かわからなくなる」。

 そもそも書評を書くという作業の秘密(のひとつ)を明かせば(この点について誰かがはっきりと書いているのを私は見たことがない)、自分が百パーセント、コントロールできる範囲で書いている書評ほどつまらないものはない。書評を依頼されれば、事実関係をメモしたり表現として印象的なところに付箋を貼ったりして読んでいくのだが、その箇所を書評のなかで引用することも時々ある(さっき、私が栗原の文章を引用したみたいに)。だが、引用することで少しだけ書評の文章の風味が変わる。「風味」と書いたが「風景」でも、別に構わない。著者の文章を引くことで予定していた文章が影響される。変化する。化学反応を起こす。読者(評者)として意識していなかったことを、不意に書いてしまう。ここが面白い。ここがなければ書評とは言えないだろう。自分の文章が、著者その人の作品とぶつかって、変化して、当該作品に似た何かを、自分の文章が蔵し始めるとき、書評は立ち上がるのだ。

 だから書評とは、評者の文章でありながら、著者の文章とも無縁であり得ず、二者の出会いの場として機能する。繰り返すが、書評を設計図どおりに書く文章ほど、つまらないものはなくて、何かがチリチリと小さな花火のように輝く場所こそが、書評と呼ぶにふさわしい場なのだ。ちなみに、いま私が書いた「チリチリと小さな花火のように輝く」の比喩は、この文章を書き始めたときまでの予定には入っていなかった。

 収録された、栗原が書いた書評は(対談を含め)、四七本。十七年という長い時間をかけて紡いだ書評だが、文章が特に巧くなったとか、そんなことはない。巧く書く、なんてどうでもいいのだ。巧さから逃れることが大切だ。どの書評からもだいたい同じ言葉が浮かび上がる。「万国の子どもたちよ、駄々をこねろ。本書を読んであらためておもった。自己統治の統治をケトバセ。大人はみんなクソ。ファック・ザ・ポリス!」

 栗原は栗原の踊りを踊っている。彼の踊りを読むことが、この本を読むことのいちばんの意味だ。だがむしろ意味なんかない。意味のない踊りを踊る。踊り続ける。十七年も。そして栗原は読者に問う。お前はどんな踊りを踊っている?

 で、まあ、最後に少しは書評らしいことを書けば、いちばんぐっときた文章は、高見順の小説『いやな感じ』(これは、二〇一九年に共和国から再刊された)に寄せた解説文。こんな世界は終わっている。人間はおしまいだ。だが、そんなの不徹底。虚無のあとには虚無しかない。終わったそのさきまで終わらせてやれ……。こんな解説書かれちゃ、天国の高見順先生も鼻血ブーだぜ、まったく。(じんの・としふみ=文芸評論家・フランス文学者)

★くりはら・やすし
=作家・政治学者・大学非常勤講師(アナキズム研究)。著書に『奨学金なんかこわくない!』『執念深い貧乏性』『アナキズム』『文明の恐怖に直面したら読む本』など。一九七九年生。