〈責任〉の生成
著 者:國分功一郎・熊谷晋一郎
出版社:新曜社
ISBN13:978-4-7885-1690-8

〈責任〉の生成

書評キャンパス―大学生がススメる本―

三好美咲 / 京都大学文学部・哲学専修3回生
週刊読書人2021年5月28日号


 過去を綺麗に消し去って、今を出発点に頑張ろう。仕事や恋愛に失敗した時、あなたはそう奮起してきたかもしれない。しかし本書は、前向きに見えるこの姿勢に難色を示す。これでは責任あるものになれないらしい。

 責任とは何だろう。リスクを承知で行動できる大人がイメージされるだろうか。政界などでの引責辞任が連想されるだろうか。本書は、このような常識とは異なる責任概念を浮かび上がらせる。それは負担や犯人探しではなく、応答し引き受けるもの、湧き上がってくるものとしての責任の姿だ。

 本書は、哲学者・國分功一郎と小児科医・熊谷晋一郎が重ねてきた対談からなる。國分は「中動態」を手がかりに、意志と責任の考古学を紐解いた。中動態とは、「欲する」「惚れる」といった、主語が行為の場所となるような動詞のこと。古代ギリシャに実在した文法である。國分は、中動態の消滅と受動態の勃興が関連すると仮説を立て、能動と受動とが対立する現在の言語は、責任の所在を尋問するようなものだと語る。

 さらに國分が指摘するのが、現在、意志は「無から創造」されると信じられているということだ。過去や周囲からの因果関係を切断し、あたかも行為の契機が個人にあるように考えるフィクション。この信仰が、当人に行為の原因を想定し、責任を問うことを可能にしているという。國分は、このような意志信仰に裏打ちされた責任概念を「堕落した」責任と呼んだ。自己責任という言葉にも現れる、押し付けや犯人探しとしての責任である。では、本来あるべき責任の姿とはどのようなものだろう。

 ここで熊谷が紹介するのが「当事者研究」である。これは、障害者が日常生活の中で体感する苦労の構造を、専門家に頼らず自分たちで言葉にしようとするもの。障害の社会モデル化を求める当事者運動に応じて、近年成立してきた。自身も脳性まひである熊谷は、当事者研究を「一度免責することによって、最終的にきちんと引責できるようになる」プロセスだと語る。

 当事者研究における前提のひとつが、物事を属人化せず現象として捉えることだという。例えば、ある精神障害者が自宅に火をつけてしまった際、彼を犯人扱いせず「放火現象」と捉えてみる。このように一度免責することで、当事者は冷静に過去を振り返り、自分の加害性を外在化して認知できるようになると熊谷は説明する。能動/受動の対立に縛りつけて犯人を尋問するのではいけない。過去に向き合い、応答しようと感じられたなら、引責する気持ちは中動態的に自然と湧き上がってくるはずだ。これが本書の掲げる、あるべき責任の姿である。

 國分はこの責任の姿を、アガンベンの「使用」概念を用いて描写した。行為をする側/される側を二分したプラトン的主客図式とは対照的に、使用する側は使用される側に合わせて自身を再構成するとアガンベンは想定する。自転車に乗るためにはサドルを跨がなくてはならないし、ペンを持つには指を曲げねばならない。責任に対しても同様だというのが國分の主張である。応答すべき相手に出会った時には、責任を引き受ける者への生成変化が求められるのだ。ドゥルーズも引用される。「われわれは何かについて責任を負うことはできないのであって、何かを前にして、われわれは責任を感じる存在になるのである」。

 二人の共同研究は、責任という概念を複眼的に問い直す、壮大な試みである。対談を通して互いの専門知が語られ、感化し合い、即興でアイデアが生まれる。そんな臨場感も魅力的だ。本書は、昨日まで何気なく接してきた「責任」に、新しい視座を与えてくれた。過去への意識や社会の常識、あらゆる物事への感覚が変わりそうだ。明日の自分にきっと影響を与える、そんな予感に満ちた気鋭の一冊。

★みよし・みさき=京都大学文学部・哲学専修3回生。とはいえあらゆる問題に責任を感じると、非力な自分が嫌になってきます。手の届く範囲から、地道に丁寧に考えたい。星野源のファン。