遊廓と地域社会 貸座敷・娼妓・遊客の視点から
著 者:加藤晴美
出版社:清文堂出版
ISBN13:978-4-7924-1488-7

明治以後の娼婦の世界と社会

地方遊廓のあり様を地理学的に検証する

小谷野敦 / 作家・比較文学者
週刊読書人2021年5月28日号


 明治五年に、マリア・ルス号事件をきっかけとして、藝娼妓解放令が出されたというのが、かつての近代遊廓史の発端だったが、今では、マリア・ルス号事件以前から、人身売買に基づく娼婦の存在は、法令上解放すべきだと政府が考えていたことになっている。だが実態は、遊廓が貸座敷と名を変え、芸妓が自らの意思で働いていることにされただけで、前借金に縛られた実態に変わりはなかった。

 私たちが落語の「廓噺」などで知っているのは、おおむねこの時代以後の明治の娼婦の世界だと言える。遊廓研究といえば、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町などが注目される中、本書は地理学的な視点から、明治以後の地方遊廓のあり様を調査し記述したもので、宇佐見ミサ子の宿場女郎研究や、渡辺憲司の地方遊里研究の衣鉢を継ぐものだ。

 調査対象として選ばれたのは、山形県米沢、栃木県烏山、横須賀の三つの町である。いずれも幕末から明治にかけて遊廓として新しくできたもので、横須賀は軍港となったため製鉄所の外国人のための「遊参所」として作られ、のちに移転したものである。

 近代史だからといって史料が豊富とは言えない。どこにどれだけの貸座敷があり、何人の娼妓がいたかというところから、地図を使って検証し、時代的変遷を読み込んでいく地道な検証作業である。それでも、米沢東楼の娼妓マスについて、残されていた手紙から、母が家出して父が精神不安定になり、母が別の男とともに戻ったため、絶望した父が川に身を投げ、救助されたが、弟も病気になり、借金の支払いが滞ったことが分かったりする。

 徳川時代の地方遊里は、街道筋の宿場に置かれた飯盛女が主で、これは宇佐見などの研究に詳しいが、明治以後は、宿場に関係なく物資の集散地、人の集まる場所で増加していく。近世においても、近隣の農村の若者が宿場女郎に通うことで風儀が乱れるというので大人たちが廃止を願い出るといった動きがあったが、主として旅人が遊里の客だった。だが近代も明治末から、近隣に住む者による買春が増えていき、「大衆買春社会」になるというのが、横田冬彦(京大名誉教授、日本史)の指摘だという。文学のほうから見ると、近代になって恋愛論が生まれ、売春を不道徳と見る論調が強まり、廃娼運動が起きるという流れだが、現実はもっと複雑であったことが分かる。永井荷風の娼婦小説や、川端康成の藝者小説が人気を博したのも、昭和初年に、藝娼妓ブームのごときものがあったのではないかと想像したくなるが、あながち間違いでもあるまい。落語の廓噺なども、現在の形ができあがったのは昭和初年ではないかと思う。

 明治三十年以後、「散娼」として、街中にほかの業種の店に交じって置かれている状態だった娼婦は、「集娼」として、市街の中心から外れた場所に集められる。それは、売買春を不道徳と見なす時代潮流の影響でもあった。横須賀の遊廓は「柏木田」へ移転するが、これはあの、山口瞳の『血族』に出てくる遊廓ではないか。テレビドラマでは「ワギダ」と発音されていたが、山口の原作にルビはなく、本書でもない。「かしわぎだ」が「わぎだ」と俗称されたのだろうか。

 三つの地域について述べたあと、西日本である広島県の大崎下島の御手洗町という島嶼部における、「ベッピン」と呼ばれ、「オナゴ屋」という店に属し、船に乗って客を呼ぶ、志摩の「はしりかね」のような娼婦が、聞き書きによる読みやすい文体で紹介されている。彼女らは地域社会から隔離されることなく、社会の一員として遇されていたということが、抑えた筆致で描かれている。

 本文は横組みで、全体にしかつめらしい学術書の文体で書かれているが、私はむしろ規矩を守って書かれた文体に感銘を受けた。いずれは一般向けの著作もなしてほしい著者である。一点気になったのは、近代における国家による性や身体の管理というフーコー的な評言が否定的に使われている気がした点で、私は現実に売買春が存在し続ける以上、これは合法化すべきだと考えており、その際は性病の蔓延予防の措置が講じられるべきだと考えているからで、著者ではなく学者たちに、このフーコー的枠組みは考え直してほしいと思った。健康診断や国民健康保険まで「国家による管理」なのだろうか。(こやの・あつし=作家・比較文学者)

★かとう・はるみ
=筑波大学非常勤講師・歴史地理学・人文地理学。共著に『生活文化の地理学』など。一九八〇年生。