夜想♯山尾悠子
著 者:山尾悠子特集編集委員会(編)
出版社:ステュディオ・パラボリカ
ISBN13:978-4-902916-45-4

純粋な物質としての美しさを

綿密に彫琢された言葉によって立ち現れる作品世界

宮崎智之 / フリーライター
週刊読書人2021年5月28日号


 世界は言葉でできているならば、言葉で世界を構築できることも自明となり、山尾悠子の言葉でできた作品に触れるとき、その世界の法外さに足が竦む思いがする。「夢の棲む街」や「遠近法」といった初期の作品、そして長い休眠期を経て発表された『ラピスラズリ』、『歪み真珠』、『飛ぶ孔雀』、『山の人魚と虚ろの王』などに至るまで、綿密に彫琢された言葉によって立ち現れる山尾の作品世界は、そういった畏怖の念を評者に与え続けた。だから『夜想♯山尾悠子』を手に取り、評者が渇望したのが、「言葉」をめぐる言説であった。

 本書には、山尾が書きおろしたエッセイ、近作掌篇、インタビューのほか、金井美恵子、川上弘美、時里二郎、沼野充義、金沢英之、三辺律子、佐藤弓生、諏訪哲史、川野芽生、金沢百枝、吉田恭子、倉数茂、高原英理、清水良典、高柳誠、東雅夫、礒崎純一、金原瑞人などによるエッセイや評論ほかが収められている。評者と同じように「遠近法・補遺」の「誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると」という二行に触れている執筆者が多く、とくに前半部は「言葉」の問題がひとつの主題になって構成されているように思う。

 谷崎由依は評論「箱のなか、箱の外」で、「(…)たいていの小説は一文一文に欠落が仕込まれており、言わばその不完全さが次の一文を読ませ、物語を推進させる。(…)けれど山尾氏の文体は、文章のひとつひとつ、もっといえば言葉のひとつひとつが、それだけで完璧に立っている」と記す。「中心への仄めかしと誘導」は避けられ、「鉱石の結晶する核のような中心が、フレーズの単位で存在するのだ」

 また、幾人の執筆者から、絵画的なイメージと、彫琢された言葉の積み重ねによって山尾作品がつくられていると指摘されている。これは、山尾自身が『飛ぶ孔雀』の泉鏡花文学賞受賞記念スピーチ(本書収録)で、同志社大学在学中に、ドイツネオゴシック様式のクラーク館に魅せられ、「左右両横から分かれて真ん中の踊り場に至って、そこから向きを一八〇度変えて二階に上がっていく階段」を大学ノートにスケッチし、さらには言葉と文章とで表現(これもスケッチと呼べるかもしれない)しようと試みた、と語っていることとも符合する。「遠近法」を読んだとき、圧倒されて目眩を起こすことしかできなかった評者にとって、これらの指摘やエピソードは、山尾作品を理解する一助となった。観念的と称するのを躊躇する手触りが、山尾の言葉から得られる理由が分かった気がした。

 しかし、「理解」するのが山尾作品の鑑賞の仕方として重要かどうかには疑問が残る。その証拠になるかはわからないが、多くの執筆者が評論やエッセイにおいて、山尾作品と邂逅した「体験」について記している。例えば、アルチュール・ランボーは、その出会いの体験自体が読者にとって重要な事件になるタイプの詩人だが、特に伝説のベールに包まれていた初期の山尾作品に目を開かれた体験を持つ者にとっては、もしかしたら山尾もそういったタイプの作家なのかもしれない。

 一方で、岡山県倉敷市の古本屋「蟲文庫」の店主・田中美穂の文章「切符売り」からは、田中と山尾との交流を通し、動物好きで気さくな山尾の人柄が伝わってくる。山尾は今年に入ってからの共同通信のインタビューで「今から自分の代表作を書いてやろうと思っています」と語っている。本書は昔からの熱心な読者だけではなく、はじめての読者にとっても山尾作品を楽しむための道標になる。

 最後に雑誌「夜想」について。一九八二年生まれで、その名しか知らなかった評者が「夜想」の創刊号(一九七八年)を偶然、下北沢の古書店で発見したのは、確か五、六年前だった。以来、内容もさることながらその装丁に強く惹かれ、今もたまに取り出しては、表紙を指先でなぞっている。山尾の本がすべてそうであるように、本書もその純粋な物質としての美しさを、本文と同時に堪能してほしい。(みやざき・ともゆき=フリーライター)