蔣介石の書簡外交 上 日中戦争、もう一つの戦場
著 者:田中克彦
出版社:人文書院
ISBN13:978-4-409-51088-9

多国間関係の動向と指導者

外交文書や先行研究を駆使して分かり易く描く

関智英 / 津田塾大学准教授・中国近現代史
週刊読書人2021年5月28日号


 多少歴史に関心がある人でも、日中戦争と聞いて想起するのは、盧溝橋事件や南京攻略戦といった緒戦の動きで、その後の経緯をイメージできる人は多くはない。ましてやそこでの蔣介石の外交指導など、ほとんどの人にとって「?」であろう。しかしどうしてどうして、これが面白いのだ。

 この蔣介石、自身は決して外国語に堪能なわけではないものの、イギリス・アメリカ・ソ連といった大国の首脳相手に、これでもかこれでもかと書簡をしたため、時には相手を褒め、時には泣き落としに近いことまでやりながら、戦争の帰趨を少しでも自身の有利な方向に導こうと、粉骨砕身したのである。さらに蔣は、その憤懣やるかたない思いを日記にぶちまけた。

 本書は、このダイナミックな多国間関係の動向と一指導者の心の動きを、複数言語の外交文書や先行研究、さらに蔣介石の日記を縦横に読み解き、一般にも分かり易く描いたものである。

 冒頭著者は「外交は、相手を自分の望み通りに動かそうとする技術(アート)である」と喝破する。贅言するまでもなく、外交の場でその「技術(アート)」の巧拙が問われるのは大国(強者)ではなく、小国(弱者)である。一休さんの頓智ではないが、立場が弱いが故にあれこれ策を巡らし、八方手を尽すのであり、そこにまた外交の妙味も生まれるのだ。

 その点で日中戦争時期、蔣介石率いる中国をめぐる状況は、外交とは何かを考える上での好個の事例である。というのも満洲事変が勃発した一九三一年当時、中国は国家建設の途上にあり、単独で日本に対抗する力を持たなかったからである。

 ではどうするか。提携相手として蔣介石が最初に白羽の矢を立てたのはドイツとイタリアだった。両国は中国との資源と引き換えに武器と戦争への助言を提供してくれた。しかし、一九三七年の日中戦争勃発や、四〇年の日独伊三国同盟の締結といった情勢の変化によりこれは行き詰った。

 次に蔣介石が頼ったのは、満洲事変以降、中国が政治的な提携、とりわけ日中戦争へ直接介入するよう秋波を送っていたソ連である。しかし、日本の矛先が中国に向かっていればこそ自国は安泰と考えるソ連が、そう簡単に中国の要請を受け入れるわけがなかった。さらにあろうことかソ連は日本と中立条約を締結した。しかし蔣は怒りを抑え、英米の支援要請という保険をかけながら、油断ならぬソ連の支援を頼り続けた。

 中国と米英の結束が深まったのは、一九四一年の日本の南部仏印進駐がきっかけだった。さらに日本の対米英開戦後、中国はアメリカへの依存を強め、四三年のカイロ会談に招かれた蔣介石は、アジアにおける連合国の指導者として認められた。

 しかし各国首脳は決して蔣介石を対等に見ていたわけではなかった。彼らとて所詮は「自国ファースト」。蔣の書簡に対する返答はしばしば、はぐらかされ、挙句の果てに無視されることも少なくなかった。対日戦争の早期終結を願うあまり、アメリカなど、ソ連の参戦と引き換えに満洲を渡すことも厭わない(それも蔣には内緒で)。このように蔣の外交は米英ソの各国に振り回されるものでもあったのだ。

 では蔣介石の外交指導は失敗だったのか。著者は、眼前の苦境を脱するために欧米列強に頭を下げて支援を乞うしかなかった蔣の外交を「無心外交」とけなす見方があるとしながらも、国家や国民が危急存亡の時に、頭も下げられない政治家など無用で有害と断言する。そして同時代の日本の政治家や外交官、軍人たちが、蔣の外交に象徴されるしたたかさをついぞ持ち合わせなかった、という厳しい事実を突きつける。

 外交とは畢竟何なのか? 日中戦争時期の蔣介石を論じながらも、本書はこの普遍的な問いをもって読者に迫ってくるのである。(せき・ともひで=津田塾大学准教授・中国近現代史)

★あさだ・まさふみ
=岩手大学人文社会科学部准教授・東アジア国際政治史。北海道大学大学院博士課程単位取得退学。著書に『シベリア出兵』など。一九八〇年生。