武満徹逍遥 遠ざかる季節から
著 者:小沼純一
出版社:青土社
ISBN13:978-4-7917-7368-8

洗練された言葉の中に息づく音楽

幻想の虚構に声と音が響く

新垣隆 / 作曲家・ピアニスト
週刊読書人2021年6月4日号


 小沼さんの武満徹に関する本の書評の依頼が私のところに来た。何故だろうと思う間もなく、これはあるひとりの武満ファンがこれから武満を聴く人々へ向けた文章を、やはりもうひとりの武満ファンが「これでよし」とお墨付きを与える、という機会なのだと勝手に直感する。そしてもう早速結論を出すが、「大丈夫、皆さんぜひ読んでください」である。実のところ今の時点でまだ読んでいない。読んではいないが眺めている。それでもうわかる。これは音楽で言えば、最初の出だしを聴いた瞬間に、「あ、これはいい」と思うのと少し似ている。もっと言えば、小沼さんが青土社から出している、という時点でもういいのである。何をふざけたことをと思われるかもしれないが、ファンにはこれは通じるのである。というところで、ここに登場する「武満ファン」なるもの(の若干の特殊性)について少々言及しなければならない。

 武満徹(一九三〇-一九九六)は現代音楽の作曲家として日本のみならず海外でも広く熱狂的ファンを持つのだが、ここで少しばかりファン層を絞り、ある種の「流派」としてそれを今、仮に「小沼的武満徹ファン」と呼ぶことにする。

 それはまず、

 ①一〇代で武満に出会い、その音楽、文章に傾倒する。
 これは小沼的と言わぬとも多数存在するとは思う(恐らく多くの武満ファンはこのようなものだと思う)のだが、ここでまた更に次のような特殊な条項が折り込まれる。

 ①の2 出来れば一〇代というのは小学生時で、更にその時自分の母親に、「武満徹って知ってる?」と聞く。
 こうなるとかなり限定される訳なのだが、私はちゃんとこの条件に合致しているのである(但し小沼さんの母親は「それほど詳しくは知らないが、大河ドラマ『源義経』の音楽を担当したり、世界的にも有名な作曲家で、音楽は独学だそう」と真っ当に答えているのに対し、私の母は「ああ、あのひゅーどろどろの人でしょ」とかなりレベルが落ちる)。

 ②そして武満の生の音楽の出会いは、草月ホールあるいは大阪万博ではなく、渋谷の西武劇場である。
 もうお分かりのように要は単に私の場合を誇らしくひけらかしたかっただけなのだが、少し一般化して、これは大体一九五〇年代後半生まれから一九七〇年代前半くらいまでの、そして関東圏育ちのケースで、小沼さんはいわばこの代表格というべき存在なのである(勝手に代表格にしてすみません)。

 と言ったところでいい加減本の内容に触れなければならない。

 本書は武満の音楽のスタイルに通じるかの様に、どの章から読んでも良く――この本の一番冒頭の言葉、日本庭園の如く――その時の赴きで自由に徘徊する。たとえば「アリスに寄り添う音楽」の章。武満の膨大な全集に収められなかった幻のラジオドラマ『地下鉄のアリス』を、しかし小沼はカセットテープに録音して所有していた。いわばこれは本人だけのものだ。しかしある日それがYouTubeに上げられているのを知り、瞬時、呆然とする。ある種の匿名的な同志たちに三〇年以上の時を経て出会う。あるいは「地下鉄」――武満の有名なマニフェスト『音の河』の認識の原点としての、また、小沼の小学生時の通学路としての――声と音の幻想の虚構の内にさまざまな時間、記憶、歴史が輻輳する。この本の中で私の特に好きなテクストだ。

 このように、この本は武満徹を巡っての本であるが、にもかかわらず、武満の音楽を聴く体験がなくとも成立する(読める)。これは実は難しいことだ。そして今、この自分の文章を読み返してその差に愕然とする。小沼の洗練された言葉の中には武満が確かに息づいている。かつて私は殆ど実際の音楽体験なしに青土社の音楽の手帖シリーズの『武満徹』を近くの図書館で借りて来るのが好きだった。それがここに受け継がれている、と思った。繰り返すが、今回私のところに書評の依頼が来たのはそれ故だと頑なに信じている。(にいがき・たかし=作曲家・ピアニスト)

★こぬま・じゅんいち
=早稲田大学文学学術院教授・音楽文化論、音楽・文芸批評。著書に『音楽に自然を聴く』『オーケストラ再入門』『本を弾く 来るべき音楽のための読書ノート』『映画に耳を 聴覚からはじめる新しい映画の話』『魅せられた身体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』『しっぽがない』『sotto』など。一九五九年生。