日本近現代建築の歴史 明治維新から現代まで
著 者:日埜直彦
出版社:講談社
ISBN13:978-4-06-522867-8

三つの着眼点から考える

日本の近現代建築のありようを問う

小澤丈夫 / 建築家・北海道大学大学院教授・office teo
週刊読書人2021年6月25日号


 著者が冒頭で述べているように、明治維新からはじまる日本の近代建築史は一九七〇年頃で途切れ、それ以降、現在に至る流れをカバーする通史が存在していない。直近五〇年の日本建築に対する建築史の定見はなく、建築史家は、明治維新以降一五〇年の概説をこれまで回避してきたように見受けられる。本書は、そこに建築家の目線から果敢に切り込んだ。

 建築家の語る世界観とその言葉使いは、しばしば難解と受け取られるが、著者は本書を一般向けと位置付け、日本の近現代建築のありようを世に問うている。一般向けと言っても、建築史家や批評家による、すでに広く知られエポックメイキングとなった著作、学術論文、専門誌上の論考を丁寧に参照し、各時代のキーワードを押さえながら歴史が紡がれている。語り口に淀みはなく、著者が満を持して渾身の力を込めて世に送り出した力作であることは間違いない。

 著者は、序章で三つの着眼点、すなわち、出来事の背景にある「持続的変化」、「二つの近代化(上からの近代化と下からの近代化)」、「二つの段階(国家的段階とポスト国家的段階)」を示している。これによって、錯綜した歴史の絡み合いを整理し、ダイアグラム化することができると述べる。読者は、著者に導かれながら、様々な時代の建築家、建築、都市を俯瞰しつつ、その背後にある文脈を駆け抜けることになる。遠く明治期からの建築と都市に思いを寄せ、先人の仕事に感嘆し、それが現代の我々を取り巻く状況にどう繫がってきたかを見ることによって、読者の前に日本の現代建築を取り巻く課題が現れる。

 一方で、現在に至る近現代建築への評価を、一般向けの通史に描くことの難しさも浮上する。評者が気になった点を、ここにいくつかあげておきたい。

 まず、本書では、上述の三つの着眼点のうち、「二つの段階」が仮説として重要な役割を担う。ただ、ここで〝国家〟というものの定義がやや曖昧なままに思われる。今日、〝国家〟をどう定義できるのか。本書が扱う一五〇年の間、〝国家〟は常に同じ位相にあったわけではない筈だ。著者が言う〝ポスト国家的段階〟においても、資本とグローバル化の荒波に揉まれ、すでに明確な目標像が失われているとはいえ、社会が無意識的・慣習的に宿し続けている様々な諸制度や風土は、かつての〝国家〟の枠組みとして強固に残り、われわれを拘束し続けてはいないだろうか。

 また、これまで建築史家が度々指摘してきた日本の〝特殊性〟を批評に掲げることが、日本固有の問題と優位性、双方の確認になるという認識に異論はない。しかしながら、〝特殊性〟によって受けての思考が内向し停止してしまえば、外にある大きな動向を見失う危険性がある。評者に身近な例だが、小国でありながら独自の立ち位置で二〇世紀の建築を牽引してきたスイスやオランダの現代建築批評では、〝特殊性〟というキーワードに帰結させることを意識的に回避しているように思う。

 現代において、建築家の職能がますますあやしくなってきている現実も見逃せない。本書でもその端緒が描かれているが、我が国の高等教育では、工学部の中に建築学科を設けることが主流であった。これは、欧州において一九世紀後半から大学に建築学部が設置された背景とは異なる。現代日本でも、建築技術者に求められる工学的有用性は揺らいでいない。その一方で、文化的・社会的領域を横断することで成立する建築家の職能が、社会的に認知されているとは言い難い。すなわち、建築家として建築を語ることによって、本質が広く伝わるかどうか心許ない状況にあることを認識しておく必要があろう。

 とはいえ、これらは本書の価値を否定するものではない。あとがきで、著者は、近年の新国立競技場や築地市場移転問題での混乱を目の当たりにし、忸怩たる思いを嚙み締めている心情を吐露している。この思いは、本書を執筆する大きなモチベーションになっているのであろう。多くの不条理を孕む現代日本の建築と都市の現状には、歴史的な必然性がある。都市と建築を漠然とみていても、その背後にある本質は見えてこない。このような状況だからこそ、建築の文化的・社会的価値をどのように位置づけるか、その豊かさとは何かを改めて問い直す必要がある。そのために、建築家や建築に関わる人は勿論のこと、一般の方に広く読んでほしい書籍である。(おざわ・たけお=建築家・北海道大学大学院教授・office teo)

★ひの・なおひこ
=建築家。大阪大学工学部卒。一九七一年生。