複眼人
著 者:呉明益
出版社:KADOKAWA
ISBN13:978-4-04-106326-2

環境思想の強大な力を備えた大傑作

読者に今、地球にとって必要な思考変化を促す

長瀬海 / 書評家・ライター
週刊読書人2021年7月9日号


 環境思想には、人間中心主義の軸と自然中心主義の軸がある。地球環境を人間のために利用するのか、それとも、自然を何よりも優先しながら共生の道を目指すのか。産業革命以来、両者が常にせめぎ合いながら、環境思想はその都度、更新されてきた。(参考、松野弘『環境思想とは何か』筑摩書房)

 そこには文明の発展に対する危機感や不安が見え隠れしている。文明の進歩を推し進めてきた考え方に、十八世紀の仏思想家コンドルセの社会発展段階説があるが、未開から文明へと着実に進歩するものこそ人類史だといい、自由の拡大と科学の発展は人間をひたすら幸福にするとした彼のような楽観的な態度の結果、地球で何が起きているか、説明するまでもないだろう。地球の危機を前に人類はもはや楽観的でいられるはずがない。台湾の近未来を描いた本作はそんな警鐘を鳴らす環境思想の強大な力を備えた大傑作だ。

 台湾から離れたワヨワヨ島でアトレという少年が暮らしていた。無文字社会で、神話的世界に対する信仰が根強いこの島は、「未開」という表現で括られるものだ。島の伝統に従う形でアトレは、生まれてから一八〇回目の満月を迎えた夜、航海に出る。だが、彼は遭難し、不思議な島へたどり着く。そこはゴミでできた巨大な島だった。彼の死を待つワヨワヨ人の亡霊のそばでアトレは必死に生き抜いていく。

 同じころ、台湾ではアリスという学者が人生を諦めようとしていた。夫と息子が山で失踪し、帰ってこない。息子を溺愛していた彼女は、自死を決意する。だが、その瞬間、地震とともに海面が上昇し、家が浸水する。さらに海の向こうから巨大なゴミの島が流れ着き、街を襲うのだった。

 カタストロフィに見舞われた海岸でアリスはアトレを救う。言葉の通じぬ二人は言外の交流を図り、情を通わせながらアリスの息子たちを探すのだが、その過程で読者は、アトレの物語を通じてコンドルセの進歩思想が間違っていたことを知る。「未開」の島から来た彼の目に映るのは、「自由の拡大と科学の発展」を楽観的に信じた結果、大きな不幸に人類が押し潰されている姿だ。作者は環境破壊によって台湾に破局が押し寄せる様を描くことで、彼の思想が射抜く的を定めるのである。

 孤独なアリスを支える二人の友人がいる。ハファイとダフという二人の先住民の人生は部族の文化観に影響を受けてきた。海に対する崇拝、山への畏怖。彼女らの物語は私たち現代人が失った自然観の本来的姿を浮かび上がらせる。それは自然との共生のために欠かせないものだ。

 やがて、小説は読者をアトレの夫と子どもが遭難した山へと誘う。そこで待ち受けているのは厳然とした大自然と、奇妙な複眼の男だ。彼は言う。人類は「他の生命が持つ記憶を破壊し、自らの記憶をも破壊している」と。他の生態より優位に立とうとする人間の自惚れを指弾する彼は、いや、作者は、人間中心主義の思想を排斥し、自然中心主義の環境思想によって読者に価値変革を促すのである。それは、持続可能な未来を作るための、今、地球にとって必要な思考変化だ。

 呉明益は台湾のノスタルジーが波打つこれまた傑作『歩道橋の魔術師』で日本人に知られることとなった。本作は同作と一緒の二〇一一年に書かれたという。台湾の過去と未来。マジックリアリズムとファンタジー。この二作は全く別の方を見ながら、私たちの現実世界を、作者にしかできない方法で捉え直している。

 全く、なんて小説家だ。呉明益は、今、読まれなければならない。(小栗山智訳)(ながせ・かい=書評家・ライター)

★ご・めいえき
=小説家・エッセイスト。台湾・台北生まれ。著書に『歩道橋の魔術師』『自転車泥棒』『苦雨之地』など。一九七一年生。