〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生
著 者:大澤真幸
出版社:講談社
ISBN13:978-4-06-522708-4

宗教としての資本主義を「入り口から出る」

「人間の終焉」後の人間のために

大黒弘慈 / 京都大学教授・経済理論・経済思想史
週刊読書人2021年7月16日号


資本主義の終焉も、人間の終焉も
〈「資本主義の終焉」か「人間の終焉」か〉という究極の選択を迫るような問いに促され、人間の終焉がありえない以上、資本主義の終焉を今ここで選び取るしかないという方向にどうやら私たちは誘なわれているようである。しかしフーコーが「人間の終焉」を指摘した時の「人間」とは一九世紀に前景化した近代のエピステーメーのことであり、それはちょうど近代産業資本主義の登場と軌を一にしている。つまり資本主義はある種の「人間」と共犯関係にあるのであり、そうである以上「人間」だけ生き残るわけにはいかない。いや、資本主義を終わらせるためにこそ、ある種の「人間」類型を終わらせる覚悟をもつべきなのだ。したがって件の問いに対しては〈「資本主義の終焉」も「人間の終焉」も〉と答えなければならない。もとより「人間の終焉」とは「人類の死滅」を意味しない。人間をアップデートすることなのだ。それは資本主義を終わらせて本来の人間を回復することではない。

 本書は「〈世界史〉の哲学」シリーズの最新作であるが、後続の『近代篇2』と差別化するために「〈主体〉の誕生」との副題が銘打たれている。それはまさに資本主義と「人間」の関係を改めて問う試みであり、同シリーズのケルンをなすと思われる。たしかに人間のアップデートのためにこそ資本主義がまず問われなければならないのだが、大澤がここで問題にする資本主義とは、主体とは独立に存在する物質過程のことではない。資本主義自体がひとつの宗教としての性格をもち、権力(剰余権力)や近代科学(剰余知識)、さらに小説などを随伴している。それらを刺し貫く共通の構造を資本主義の核とみなすのだ。それでは資本主義の宗教性とは何か?

宗教としての資本主義
 マルクスは資本主義の分析に際して「人間の解剖がサルの解剖の鍵である」と言った。それは成熟した近代(人間)を前提としてこそ、それ以前の前近代(サル)の意義を正しく評価できるということである。しかしそう言えるのはまた、前近代的な要素が一掃されることなく、形を変えて近代のうちに持ち越されているからでもある。つまり大澤によれば、近代とは前近代なしにはあり得ないのであり、内的に深い対立、複数性を孕んだものである。

 貨幣の「極端な寛容性」に注目しつつも大澤は、貨幣の近代性のみを、つまり通常の物質的な富への冷めた欲望のみを見ているのではない。シンドバッドのようなイスラーム商人には見られない西洋資本主義を駆動する富への過剰な欲望・貪欲さは、じつは宗教的な超越性への崇拝の過剰さに対応しているのであり、無意識における宗教的崇拝が貨幣への欲望という形式を帯びつつ、さらにそれを凌駕する過剰な執着として行動に現れるとき資本主義が可能になるというのだ。したがって、有限性への過剰な執着つまり倹約もまた資本主義の変奏とみなされる。近代の二重性というとき、それは、近代のうちに前近代性が単に同居しているのでもなく、単に否定されているのでもなく、「否定の否定」や「二重の隠蔽」を通して、前近代性が独自の仕方で強化されていることを意味する。「資本主義の宗教性」とはこのことである。

終末論と予定説
 資本主義の宗教性は、しかしまた終末論(終わり)に対する両義的な態度にもうかがうことができる。債務証書としての貨幣が受け取られ続けるのと同様に、資本主義もまた、終わるはずがないという信念と同時に自らの終わりという不安にも取り憑かれ、さらにその不安によって支えられている側面がある。それは何回も訪れるバブル崩壊や恐慌のような相対的に「小さな終わり」だけでなく、「全体としての破局」についての幻想を刺激することによって、むしろその永続性を保証されているかのようなのだ。「資本主義の終焉」をめぐる言説は今日に始まったことではなく、初めから資本主義をかえって強化する言説として機能していたことは銘記されるべきである。

 それにしても、ヴェーバーが説くように、最も資本主義と折り合いの悪そうな予定説がなぜ資本主義の起点となりえたのか? それは予定説が、最終的な充足を断念することを是とするからだと大澤は言う。逆からいえば、予定説においては終わりに到達したとたんに、更なる終わりが未来に措定される。こうした心的態度が抽象的時間の背景となる。つまり、始まりと終わりによって区切られた時間が無数に組み込まれているがゆえに、全体をマクロに見ると均質で抽象的な時間が得られるのだ。こうした抽象的時間は労働者の抽象的労働だけでなく、資本家の絶えざる再投資にも道を開く。

 しかし、予定説はわれわれの行動や選択がすでに決定されていると説くのだから、これほど過激な自由の否定はないはずである。したがって大澤は、唯一神(第三者の審級)が、根底から否定され、置き換えられたり変形されたりする可能性を示唆し、そこに真の自由の可能性を見出してゆく。それはまた、構造そのものの中に孕まれた歴史性を抉り出し、あたかも登場人物自らが台本を書き換えるように、歴史認識を更新していくこととも言い換えられる。

表象を打ち破るのは、人間か類似か
 大澤は武田将明に着想を得ながら、『ロビンソン・クルーソー』や『パミラ』のような一八世紀の初期小説から一九世紀の典型的な近代小説へと至る過渡期に現れた『トム・ジョウンズ』に注目して、そこに一八世紀の小説にはいまだ確立していない「プロット」と「三人称客観描写」の兆しを確認する。この二つがあればこそ、主人公が偶然性に翻弄され、神の存在や神の知に対する懐疑や不安が芽生えたとしても、最終的にはその偶然性が必然性の中に位置付け直されるというかたちで第三者の審級が回復されるからである。

 さらに大澤は、およそ小説なるものは生の内容に関する普遍性の「極点への衝動」を胚胎させており、その小説の極限は『ブヴァールとペキュシェ』と『紋切型辞典』によって示されるというのだが、ここでも重要なのは、「小説なるものへと人々を駆り立てている衝動は資本主義的なものである」という指摘である。

 大澤はカントールの集合論を援用しながら、科学の言説と小説の言説が資本主義に対してもつ意義の違いを浮かび上がらせようとする。科学では扱いきれない「無限集合に対する剰余」という「極大の偶有性」を、小説こそが掬いとることができるものとして期待されているのだが、しかし、それは小説が近代小説それ自体、あるいはその衝動の極限たる『紋切型辞典』をもさらに超えてゆく可能性があるからではないだろうか? 資本主義に随伴することを止め、「広義の資本主義」を覆すような潜勢力を秘めた小説があるはずであり、それは、大澤自身によって、小説の極限の像へと向かう運動から距離をとり、そこから小説を解放し、小説本来のモチーフを保持すること、とも示唆されている。それは意外にも、『トム・ジョウンズ』の対極にある『トリストラム・シャンディ』のような小説ではないだろうか?

 大澤は、この小説が自らの存立条件としての「表象のエピステーメーを過剰に徹底させる」ことで逆説的にそれを超克する前衛性をもちつつ、それはその後に来るはずの近代の人間主義の方向にではなく、中世・ルネサンスの「類似のエピステーメーに後戻りする」(表象の時代を入り口から出る)ことによって実現していると解釈するのだ。

 本書『近代篇1』においては、資本主義から抜け出す回路、あらたな「人間」像が具体的に示されているわけではない。しかし『トリストラム・シャンディ』だけでなく、それとなく示唆された諸断片をわれわれは決して見逃すべきではない。それはたとえば、「第三者の審級の根底からの否定」であり、また登場人物自身が台本を書き換えるような「歴史認識の更新」であり、さらに召命の廃棄という形で召命に応じる内部のプロレタリアが、外部の黒人奴隷とともに「階級自体を否定する可能性」等々である。

 これらの伏線が今後いかに回収されることになるのか、『近代篇2』への期待が否が応でも膨らむ。本書には、分野横断的な内外の研究業績のみならず、映画・小説・音楽・スポーツなども射程に収めた圧倒的な情報量と、目を瞠る華麗な推論の綱渡りとが奇跡的に共存しており、読者は知らず知らず自由な思考に誘なわれる。著者とともに探究する楽しさを満喫することのできる稀有な一冊である。(だいこく・こうじ=京都大学教授・経済理論・経済思想史)

★おおさわ・まさち
=社会学者。著書に『ナショナリズムの由来』など。一九五八年生。