コロナ時代のパンセ 戦争法からパンデミックまで7年間の思考
著 者:辺見庸
出版社:毎日新聞出版
ISBN13:978-4-620-32683-2

身体に根ざす言葉、静かな精神の胆力

地面ほども低いところから湧いてくる声を聴く

小池昌代 / 詩人
週刊読書人2021年7月23日号


 二〇一四年から二〇二一年まで、編年体で編まれたエッセイ集である。月刊誌に連載した文章を再構成したものという。

 何か大きな事が起こると、その「大事」は、歴史的時間をそれ以前とそれ以後とに分断する。本書の時間枠でいえば、二〇二〇年初頭を区切りとする、コロナウィルス感染流行以前と以後ということになる。しかし人間の時間に実は以前も以後もなく、日常はなだらかに繫がっていた。そのことが、本書を読むうちによく見えてくる。

 物差しの一つは「自然」である。辺見庸は、政権の右傾化や歴史的無知、多数派に与する傍観者の精神や、弱者・貧者を切り捨てる論理を、鋭く発見し批判する。同時にその目で、自然を見る。自然を聴く。そして現代社会と自然の事物とを、感覚のなかで繫ぎ合わせる。このことは、少し特異なことだと言っていいのではないだろうか。時事問題を扱いながら、世界を見る目が複眼的で、言葉が常に一個人の身体に根ざしている。

 たとえば冒頭で描写された、落葉期のミズナラの樹のこと。それは、季節がめぐれば再び豊かな緑を茂らせる希望の比喩ではなく、立ち枯れ、倒木する、我々の絶望的存在の喩として選ばれ、「いまは、戦時ではないか」という悲観的な認識を導くものとして使われていた。だが著者が、私達の預かり知らぬある一瞬に、ミズナラの落葉を深く確かに見収めた人であることを、確かに信じさせる一文でもあった。怒りと否定の後ろに、こうして物言わぬ自然現象が重なって見えてくるとき、これは著者の思惑外のことだったかもしれないが、一人の読者としての私の内に、希望の光のようなものが差し込んできた。

 散歩道のクスノキ、キジバトや犬の存在、ひとみが焦げそうなコガネムシのこと、家のクモ、口に含んだブルーベリー、オジギソウの含羞、著者を動揺させたコスモスの花。樹木や花の名をよく知る人だ。そして、母のこと、介護する友人の話、自身の老いと脳出血、後遺症との闘いに加え、暴力によってクレンジングされたかもしれない「オババ」のことやら、漱石、中島敦をはじめとする死者たちの言葉まで含め、すべて「自然」と言ってよいなら、こうしたあらゆる自然現象が時事問題を包みこむ形で、世界の断面が差し出される。断崖を落ちるような否定の激しさも怒りも諦めも、見切ったと見えながら、そうではなく、底の方で燃え続けている何かがあった。自然が続いているように。その静かな精神の胆力こそを受け継ぎたい。

 私は今も、戦争や天皇について考え続けていて、石牟礼道子も愛読してきたから、「石牟礼さんと皇后とパソコン」などの一章を読むと、その微妙な書き方も含めて深く感じ入る。石牟礼道子が言ったという「でもねえ……」の次を、今度は自分が引き受け、考える時が来ていると思う。天皇家随一の詩人である美智子さん。嫌う理由は私だってない。「でもねえ……」。「しかしながら」の先を粘り強く考えていかなければならない。「権威・権力」は強面でなく、優しい善人の顔をしている。なびくつもりはなくても、なびいてしまうかも。この本は自分の甘さを照らし出してくれるようでもあった。

 見下ろすような位置でなく、地面ほども低いところから湧いてくる声がある。私はいつしか遺書を読むような気持ちになっていた。いつかきっと読み返す時が来るだろう。(こいけ・まさよ=詩人)

★へんみ・よう
=作家・詩人。著書に『自動起床装置』(第一〇五回芥川龍之介賞)『もの食う人びと』(第一六回講談社ノンフィクション賞)『生首』(第一六回中原中也賞)『眼の海』(第四二回高見順賞)『完全版 1★9★3★7』など。一九四四年生。