脚本家・野木亜紀子の時代
著 者:小田慶子・佐藤結衣ほか
出版社:blueprint
ISBN13:978-4-909852-17-5

メディアの変化が再発明したテレビドラマと新たな芸術家像

松井茂 / 詩人・情報科学芸術大学院大学准教授・映像メディア学
週刊読書人2021年9月24日号


 SNSで本書の刊行予告を見かけた際、そのタイトルに「先を越された!」という印象を持った。別にそうした書籍の刊行を準備していたからではない。二〇一〇年代の作品あるいは作家を振り返った際、現代アートを主題にしている私にとっても、野木亜紀子という脚本家が、その批評対象に入ってくるという確信があったからだ。

 この背景には、二つの事情がある。

 一つ目は、メディアの事情だ。業態としてのテレビの状況は措いて、テレビドラマが息を吹き返したのがこの一〇年間の出来事だと私は考えている。その理由は、配信による映像視聴が一般化したことだ。象徴的に語られるのは、Netflixが二〇一三年に『ハウス・オブ・カード 野望の階段』の配信に成功したこと。五〇〇分規模の映像による物語を、週末や仕事の合間など、サブスクリプションで視聴する生活習慣を世界中の人々に浸透させたわけだ。このことは、九〇分から長くても一八〇分程度の映画とは異なる、数週間にわたって放送される連続テレビドラマのように、時間をかけて語られる物語への回帰といえるだろう。

 換言すれば、あらすじの外部にいる人間や出来事の詳細、日常性へのこだわりが、物語に強く求められる。こうしたメディア状況を活かせる、新たな作家性が求められているのが二つめの事情だ。特にSNSが生活に浸透し、不可視かつ一様な価値観では割り切れないコミュニケーションが社会を構成し、処世術はもちろん、希望の種類も多様だとされているわけだが……。

 背景となる二つの事情は、インターネットプラットフォーム(経済)に係わる。新自由主義経済下において、人々は多様な選択肢を見せられながら、経済格差によって階層を固定され、選択の余地無く生活しているのが多様性の実態だ。野木のドラマは、醒めない悪夢に没入せざるを得ない人生へのケアと、その先での覚醒を促しているだろう。ここに現れた批評的な作家性を、「野木亜紀子の時代」と指摘することに、私は必然性を感じる。いや、こんな込み入ったことは本書に書いてないのだが、以上の観点を前提として私は読みはじめたのだった。

 本書は、二〇一六年の『重版出来』から二〇二〇年の『MIU404』まで、七本のテレビドラマを七人のライターが論じている。テレビに関する記事を、日常的に情報誌やWebに執筆する書き手たちが、殊、野木については何度となく語りたくなっている様が、七人七様に告白されているのがなにより面白いし、やはり通常のテレビドラマとの違い、いわば見応えを教えてくれる。そして各筆者は、論の中心とするドラマを掲題しながら、他の野木ドラマとの関連を指摘している点も興味深い。

 個人的に印象に残った筆者たちの言葉を引いてみたい。「にぎやかな彼らの日常は、私たちの日常に繫がり、今もまだ、続いている」(『重版出来』)。「正解のない時代を生きる私たち」(『逃げるは恥だが役に立つ』)。「ジェンダーの対立ではなく協力」(『アンナチュラル』)。「終わらせることの重要さ」(『獣になれない私たち』)。「自分の信じたい物語を信じたいという人々の欲望」(『フェイクニュース』)。「自分や自分の大切な人の世界ではちゃんと成立しているはずなのに、それを傷つけ、壊してくるのは、世間の目や偏見だ」(『コタキ兄弟と四苦八苦』)。「人と人は、影響しあうから面白い。相手の信念や考えに感化され、自分が変わる」(『MIU404』)。

 本書を通じて浮上する野木の作家性は、五〇〇分でも完結しない作品概念をもっているということだ。ドラマ相互がネットワークを形成し、社会像を描くのだ。リアリティのある設定で、物語に没入させた後に、コンシャスネス・レイジングがもたらされる。テレビドラマというフィクションの表現力の現在地を確認することができた。(まつい・しげる=詩人・情報科学芸術大学院大学准教授・映像メディア学)