元職員による徹底検証 相模原障害者殺傷事件
著 者:西角純志
出版社:明石書店
ISBN13:978-4-7503-5201-5

映画『ショアー』にも匹敵する重みと深み

事件に対する比類ないアプローチを行なう

高橋順一 / 早稲田大学名誉教授・ドイツ・ヨーロッパ思想史
週刊読書人2021年9月24日号


 私にとって西角は『移動する理論――ルカーチの思想』を書いた哲学者であった。その西角から、津久井やまゆり園に勤務していたことがあること、やまゆり園の事件に対して、その裁判も含めて関わり続けようと思っていることを聞いたのは事件のすぐ後だったと思う。私がすぐに思い出したのはハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』のことであった。ホロコースト=ショアーの実質的な立案者であったアイヒマンに対する裁判の報告書であるこの本は、ホロコースト=ショアーという出来事について考え続けるための最も重要な著作の一つとなった。私は、西角もまた哲学者であると同時に津久井やまゆり園職員であった人間として、この事件に、裁判の過程を含めて関わるべきだと彼に話したのを記憶している。本書で西角はまさしく二つの視点、哲学者としての視点と当事者としての視点から、この事件に対する比類のないアプローチを行っている。丹念に裁判の記録を読み、遺族、職員、さらには植松被告本人の、直接面接も含めた膨大な証言を集めるその作業は、ほとんど映画『ショアー』にも匹敵するような重みと深みを備えている。その一方哲学者として西角はこの事件から見えてくる問題を「法」を通して見定めようとする。難解だがここに本書の最も重要な内容が含まれているといってよい。

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 誤解がないようにいっておくが西角が問おうとする「法」の問題は法律の問題ではない。西角が問おうとしているのは法と法外なものの関係の問題である。法外なものとは何か。それは破壊と創造の両義性を負った暴力のことである。根源悪の核心に潜むのはこの法外なものとしての暴力である。西角はこの法と法外なものの関係を問うにあたってカフカに着目する。じつはカフカの文学のなかには「法」の原風景というべきものが刻印されている。とくに注目すべきなのは「掟の門」というテクストである。

「掟の門」、つまり法の門は常に開かれている。だが個人の側から見れば法は常に自分だけのものでしかない。法は常に開かれているのに、個人は一人で法と向き合い法によって全面的に包摂される。そこには法と個人の決定的な非対称性が出現する。この非対称性によって個人は自らの存在を根こそぎ奪われる。その根源にあるのが法による法外なものである暴力の占有なのだ。この占有は同時に法外なものに含まれる「正義」の占有も意味する。「正義」が暴力とともに法のものになるとき、法と個人のあいだの非対称性は決定的なものとなり法が人間の生死を決定するようになる。これが根源悪の起源である。植松のふるう刃物によって命を奪われていった犠牲者たちと植松とのあいだにもこの絶対的な非対称性としての根源悪が存在したからである。ところで西角は「掟の門」を植松に差し入れて感想文を書かせているが、そのなかに「どんな犯罪でも無罪にできる心失者には、人権すら例外であると考えられます」(七七頁)という言葉があった。「例外」という言葉にじつはこの事態を根底から反転させる契機が潜んでいるのを植松は知っていただろうか。カール・シュミットの「例外」状態を手がかりに、一切の法暴力を消滅させる革命の暴力の意味を問おうとしたベンヤミンの「暴力批判論」を思い起こしてほしい。それは本書から拾った微かな救いの証しといえるかもしれない。(たかはし・じゅんいち=早稲田大学名誉教授・ドイツ・ヨーロッパ思想史)

★にしかど・じゅんじ
=専修大学講師・社会学・社会思想史。津久井やまゆり園には二〇〇一年から〇五年に勤務。一九六五年生。