佐多稲子 政治とジェンダーのはざまで
著 者:小林裕子
出版社:翰林書房
ISBN13:978-4-87737-459-4

自己批評性と身体感覚的な表現

詩から小説への転身、ナルシシズムと裏腹の自己嫌悪や自己劇化の剔抉

竹内栄美子 / 明治大学教授・日本近代文学
週刊読書人2021年10月15日号


 かつて『佐多稲子 体験と時間』(翰林書房)で佐多文学について重要な視角を提示してくれた小林裕子氏の二冊目の佐多稲子研究書である。あとがきによれば、前著から二〇年以上が経過したという。「私にとっては一生をかけるに足る魅力が佐多稲子の人と文学にあった」と述べる著者は、生年が一九四一年で八〇歳になられる今年、本書を上梓された。そのことにまずお祝いを申し上げたい。現在は年齢を問うこと自体が憚られる世情だが、巻末の著者紹介の生年を見て驚き、いま六〇歳の私が二〇年後にこのような大著の論文集――それもみずみずしい論述で佐多作品を緻密に分析している――を刊行できるかどうか、到底おぼつかない気持ちで、本書刊行に敬意を表すると同時に著者を仰ぎ見るような思いだった。

 本書は、冒頭に書き下ろしの「佐多稲子小伝――他者という鏡」を置き、Ⅰ詩から小説へ、Ⅱプロレタリア文学の中の女たち、Ⅲ戦争前夜の模索、Ⅳ戦後日本の時空間、Ⅴ同時代の女性作家という五部構成となっている。取り上げられた作品は、初期の詩作品のほか、小説は「幹部女工の涙」などの「女工」もの五部作、「煙草工女」「別れ」「牡丹のある家」「樹々新緑」「くれない」「みどりの並木道」「夜の記憶」「渓流」「黄色い煙」「ばあんばあん」である。同時代の女性作家は、若杉鳥子、壺井栄、大谷藤子が論じられた。佐多の代表作、たとえば「キャラメル工場から」「素足の娘」「私の東京地図」「灰色の午後」「女の宿」「時に佇つ」「夏の栞」などは前著で扱われたので、併せて読むことで著者の佐多論は形成される。その意味で前著を含めての理解が求められよう。

 まず大雑把な印象で言えば、前著では佐多文学の人生に対する謙虚さが基底となっていたのが、本書ではその基底は揺るがないものの、たとえばナルシシズムと裏腹の自己嫌悪や自己劇化が剔抉され、前著よりもいっそう佐多作品への切り込みが鋭くなったように思われた。とりわけ「くれない」の評価は、主人公明子の媚態が意味するものが分析されて、隠蔽された夫広介の内面にも留意しながら、書く仕事を持った女性の自己確立を複雑な陰影とともに明らかにしている。私自身、かつて「くれない」の初出雑誌連載を確認したさい、挿絵と相乗効果のあるメロドラマ的展開をどう捉えるか考えあぐねたことがあったが、著者の「くれない」論で解答を得た思いがした。

 さらに本書で注目されるのは、詩から小説へ転身する佐多稲子の「歌のわかれ」である。すでに前著で紹介されていたが、丸善の女店員のころ、「夜思美」という甘やかなペンネームで、生田春月主宰の『詩と人生』に発表した習作時代の詩は、早くから表現者としての自己を意識していたこと、つまり語るべき内面をもとにフィクション化する欲望があったとされている。そして、その「夜思美」時代の詩から『驢馬』時代の外部世界のなかの自己像が次第に変化していくさまも丹念に追尋されている。とりわけ詩「朝鮮の少女」は、私も授業で扱うことがあるが、『驢馬』同人と知り合った稲子がその文学上人生上の理想に感応してつくられた佳作であったという。しかし、プロレタリア詩は稲子には書けず、次第に小説へと転じていき(この点、中野重治も詩が書けなくなっていったことが思い出される)、そのさい著者が大きな要因と捉えたのが「語り手」の役割であった。

 この「語り手」は、のちの小説分析でも活かされていて本書の大きな分析軸のひとつである。自省癖が強く、ある方向に突っ走る自分を冷めた目で見つめる佐多の傾向を踏まえて、距離をとって語る自己批評性とともに、身体感覚的な表現が佐多独自の特殊な問題と位置づけられた。この身体感覚表現も「語り手」同様「女工」もの五部作をはじめとした分析に活かされている。「煙草工女」では中野重治「春さきの風」が補助線とされたように、私には「別れ」は松田解子『女性苦』が想起された。『渓流』は、従来、主人公が「わが家」と呼ぶ共産党との関係が焦点化されてきたが、女系家族の終焉としてもうひとつの「わが家」への言及に目を引かれた。本書からは、プロレタリア文学の政治性に迷いや模索を感じながらも、階級格差の原因に気づいた佐多稲子がジェンダー問題にも目覚めていった経緯が浮かび上がる。前著と併せて読みたい。(たけうち・えみこ=明治大学教授・日本近代文学)

★こばやし・ひろこ
=城西大学別科専任講師を務めた。佐多稲子研究会会員・日本社会文学会評議員。著書に『佐多稲子体験と時間』『壺井栄』など。一九四一年生。