入門・行動科学と公共政策 ナッジからはじまる自由論と幸福論
著 者:キャス・サンスティーン
出版社:勁草書房
ISBN13:978-4-326-55086-9

不完全な者同士の協働手段としてのナッジ

その背景知識を網羅的に提供

佐々木周作 / 東北学院大学准教授・経済学
週刊読書人2021年11月19日号


 進学校に通うあなたの息子が、突然、「大学に進学せずに高卒で働きながら、ロックスターを目指すことにした」と言い出したとしよう。表情から察するに明らかに受験ノイローゼに陥っていて、冷静さを欠いている様子だ。この場合の対応は明確で、すこし時間を置いて落ち着きを取り戻した後に話をするのが良い。あるいは、予めノイローゼになる可能性を指摘しておいて、都度休憩を取る無理のない勉強計画を自発的に立てるように促したり、本人が独力で計画を立てることが難しい場合にはそれを手伝ってあげれば良い。

 本人が固い決意を持っているように見える場合でも、親は大学進学の再検討を促すかもしれない。同じようにミュージシャン志望の同級生も大学に進学することを念押ししたり、大卒者の平均的な生涯年収とロックスターの夢が大成しなかったときの生涯年収の差分を強調したりするかもしれない。それは息子にとって「より良い人生」を送って欲しいという親心からくる推薦であろう。同時に、親の経済力では、仮にロックスターの夢が大きく失敗したときに息子の人生を支えきれないという心配や、親自身が「より良い人生(老後)」を送りたいという願望も背景にあるだろう。打算的にも感じられるが、近しい者同士がセーフティネットとなって一定程度支え合わないわけにはいかない現実を考えると、自然な反応と言える。

 前述の親から息子への働きかけが、本書の「ナッジ」に相当するものである。ナッジは、本人と社会(前述の例における親)の両方にとって「より良い方向」につながる行動変容を促すためのコミュニケーションの工夫だ。オバマ政権下で情報規制問題室長を務めた本書の著者キャス・サンスティーンらの貢献によって、ナッジは世界中の公共政策で活用されるようになった。コロナ禍でも、社会的距離の確保やワクチンの自発的接種を促したい場面でナッジの活用が検討されてきた。

 一方で、本書を読み進めるにつれて、より良いかどうかの判断が極めて難しいことに読者は気づくだろう。親と息子の例では、ロックスターの夢破れて、高い水準での経済的豊かさを手に入れられなかったとしても、過去に再び戻れるなら同じ夢は見ないと本人は言ったとしても、失敗経験が親子両方の人生の質を高めていた可能性が無視されているように見える。より良いかの判断基準は本書第8章で「厚生」と呼ばれ、選好ベース・快楽主義・客観的な善など、どの理論に基づくかによって定義が変動するという。

 行動変容を促す側も、理想的な選択を分かっているわけではなく、不完全である。しかしだからこそ、強制や罰則でなく推薦を使うのだろう。「こちらの選択の方が良いのでは?」と働きかけて応じない場合は相応の理由があると考えて、本人と社会の両方が納得できる方向性をすり合わせるのがナッジ本来の姿だ。

 親子関係でさえ難しい双方向のコミュニケーションを公共政策に応用しようとする試みが、ナッジの政策活用だと言えるだろう。それが適切に運用されているかどうかを私たち市民がチェックするときに必要となる前提知識を、本書は網羅的に提供してくれる。(吉良貴之訳)(ささき・しゅうさく=東北学院大学准教授・経済学)

★キャス・サンスティーン
=ハーバード大学ロースクール教授・憲法・法哲学・行動経済学。著書に『熟議が壊れるとき』など。一九五四年生。