アメリカの挫折 「ベトナム戦争」前史としてのラオス戦争
著 者:寺地功次
出版社:めこん
ISBN13:978-4-8396-0327-4

忘れられた内戦に光を当てる

読み応えのある歴史書

山田紀彦 / アジア経済研究所動向分析研究グループ長
週刊読書人2021年12月31日号・2021年12月24日合併


 多くの人はラオス内戦について知らないだろう。ベトナム戦争当時、隣のラオス王国ではアメリカが深く関与した内戦が起きていた。そしてアメリカは、第二次世界大戦中にドイツと日本に投下した量を上回る二〇〇万トン以上の爆弾を、日本の本州程度の規模の国に落とし多くの犠牲者を生み出した。一人あたりにするとラオスは最も爆弾を落とされた国となり、現在でも不発弾による被害が続いている。

 なぜこのような事実が知られていないのだろうか。それは、インドシナ紛争に関する研究がベトナムを中心に行われ、アメリカのラオスへの介入が「公然の秘密」とされたからである。そしてラオスは「忘れられた国」とも揶揄された。

 本書はベトナム戦争の影に隠れていたラオス内戦に再び光を当てる。著者は主に公開されたアメリカ政府の史料に依拠し、第二次世界大戦後から一九六二年までにラオスが「中立化」する過程と、その後のアメリカによる軍事介入の背景を詳細かつ丁寧に描き出す。これにより、アメリカ政府内の政策決定過程とともに、イギリス、旧ソ連、ラオス王国政府などの各アクターとアメリカの相互作用が明らかにされる。アメリカのラオス介入は俗にいう「CIAの秘密戦争」ではなかった。

 アメリカがラオスを重視した背景には、インドシナが共産化すればアジア全体に共産主義が拡大するとのドミノ理論的思考があった。そしてアメリカはラオスを鍵と位置付け、ラオス国内の政治的安定を維持し親米政権を築こうとした。つまりラオスの「国内的安全保障」が、アジア地域や国際的安全保障と結び付けられたのである。

 アメリカはラオスが共産化するわずかな可能性をも排除するため、あらゆる手を尽くした。したがって北ベトナムの支援を受け、王国政府に抵抗していた左派勢力「パテート・ラオ」の国家への包摂や、ラオスの中立化は選択肢になかった。だからこそアメリカは、ラオス問題を解決する一九五四年のジュネーブ合意に署名せず、ラオスの右派、左派、中立派による統一政府の形成に抵抗し続けた。そして、親米右派や若手軍幹部などに莫大な支援を注ぎ、なりふり構わず親米政権の樹立を目指したのである。

 しかし、アメリカの対ラオス政策は挫折する。度重なるクーデターで国内情勢が不安定となり、形成がパテート・ラオに有利になると再びジュネーブ会議が開催され、一九六二年七月にラオスの「中立化」が決まった。アメリカはラオス全土の共産化を防ぐために「中立化」を受け入れ、表向きにはラオスから撤退する一方で、一九六四年からラオスへの空爆を開始した。これには、北ベトナムがラオスを通じて南ベトナムに補給物資を輸送していた「ホー・チ・ミン・ルート」の分断と、パテート・ラオの全土掌握阻止という二つの目的があった。空爆は一九七三年の「パリ和平合意」まで続いた。アメリカは後にベトナムで味わう「介入・挫折・撤退」を、すでにラオスで経験したのである。著者が指摘するように、ラオス内戦はまさにベトナム戦争の前史だった。

 本書からは、パテート・ラオをアジア全体に共産化をもたらす「怪物」とみなし、あらゆる手段を講じてその排除を目指したアメリカの苦闘が見てとれる。はたしてパテート・ラオはそこまでの存在だったのだろうか。

アメリカは明らかに敵を過大評価していたと考えられる。もちろんパテート・ラオの背後には旧ソ連や中国がいたが、両国はラオスの「中立化」を支持していた。北ベトナムもパテート・ラオを軍事面でいつでも全面的に支援したわけではなく、パテート・ラオの軍事行動には制約があった。

 本書はアメリカの他国への「介入・挫折・撤退」という行動パターンの始まりが、ラオス内戦にあったことを改めて示してくれる。そしてアメリカは現在でもこのパターンを繰り返しているように見える。忘れられた歴史と現在をリンクさせる読み応えのある歴史書である。(やまだ・のりひこ=アジア経済研究所動向分析研究グループ長)

★てらち・こうじ
=共立女子大学国際学部教授・アメリカ政治外交論。共著書に『アメリカの政治』など。