ヴェーバーとフランクリン 神と富と公共善
著 者:梅津順一
出版社:新教出版社
ISBN13:978-4-400-42728-5

フランクリンの強烈な個性とユニークな背景

多様な信教の自由を実現していたペンシルヴェニア

田上雅徳 / 慶應義塾大学法学部教授・西欧政治思想史
週刊読書人2022年2月11日号


 ニューヨークを舞台にして「ロッキー」の第一作目はあそこまでリアリティを出せただろうか。「ロサンゼルス」というタイトルで、デンゼル・ワシントンとトム・ハンクス共演による社会派ドラマは成り立ち得ただろうか。著者・梅津順一が描き出すのは、その名を聞く多くの米国人にレゾナンスを引き起こすにちがいない都市・フィラデルフィアに生きた、一人の市民の肖像である。

 もちろん、書名がすでに指示している二〇世紀ドイツの社会科学の巨人は、著者の問題意識を決定的に規定している。しかし、四五〇頁以上の紙幅を現代の経済史家に費やさせたのは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で「資本主義の精神」の体現者としてマックス・ヴェーバーが注目した、ベンジャミン・フランクリンその人の強烈な個性とユニークな背景だったというべきであろう。著者は『自伝』にもとづく丁寧な考察を重ねていくが、それに随行する私たちの思いは何度となく、独立宣言が起草されたアメリカの古都に向かう。この街にこの人あり、この人によってこの街あり。

 もともとフランクリンは、信仰の自由を求めて大西洋を渡った両親のもと、ボストンで生まれ育った。したがって、彼が最初に吸い込んだのは一八世紀のニューイングランドに特有の宗教的な空気である。この文脈で著者は、同地で強い影響力を行使した会衆派の牧師コットン・マザーを重視する。ピューリタニズムにもとづくマザーの天職論や善行論はフランクリンに吸収され、思想的化学変化を起こして「資本主義の精神」を作り出すことになるからである。

 しかし、家庭の事情も重なり、フランクリンはニューイングランドを離れ、英国で印刷工として修行した後、ペンシルヴェニアのフィラデルフィアに生活の拠点を構える。このとき、北米植民地の中でも際立つ当地の独自性は、他にあまり類を見ない課題を彼に突きつけていった。そして、そうした課題に対する回答を積み重ねるなかで、フランクリンはあの「建国の父」になっていくのである。

 そもそもペンシルヴェニアは、個々人に等しく聖霊が働きかける(このとき人は体を振動――クエイク――させる)ことを重んじるがゆえに、上下関係のある社会秩序に馴染もうとしないことで、英米両国で白眼視されたクエイカー教徒によって開かれた土地である。中心都市フィラデルフィアはフランクリンの頃になると、アングリカンや長老派に属する人びとを多く擁していたものの、議会で多数派を形成していたのは、貿易などで財をなしたクエイカーたちであった。そのため、この都市でしか生じないような問題にフランクリンは直面する。たとえば都市の防衛は、クエイカーが絶対平和主義を奉じていたため、一筋縄ではいかないイシューとなった。そこで、フレンチ・インディアン戦争の前夜、外敵の脅威にフィラデルフィアが直面した際、彼はジャーナリストとして世論を興し、志願者からなる民兵隊を組織する。つまり、強制的な徴兵にもとづいても決して不思議ではない国防政策にしても、フランクリンはこれを市民の自発性に委ねようとしたのである。

 その他にも本書は、消防組合や病院そして大学などをフランクリンが自発結社として次々に立ち上げていく様子を描く。このとき彼が体現していたエートスを著者は、マザー牧師やメソジストの巡回説教者ジョージ・ホイットフィールドら禁欲的プロテスタンティズムの指導者たちの言説に照らし合わせて分析する。ヴェーバーを意識する以上、当然であるし、ここでの記述は手堅い。そのことを評価した上で、私があらためて指摘したいのは、かのエートスの特殊フィラデルフィア的な性格、ということになる。

 ある地域で支配的な影響力を持つ宗派が、その地の相互扶助活動や教育政策などの公共プロジェクトを推進していく。こうした例が北米植民地では見られ、たとえばマサチューセッツでは会衆派の聖職者を養成する高等教育機関としてハーバードが、ニュージャージーでは長老派のそれを輩出すべくプリンストンが設立された。しかるに、他所では異端視される宗派をも受け入れることで多様な信教の自由を実現していたペンシルヴェニアでは、特定の宗派教会が社会形成をリードする可能性が相対的に減じる。結果として、フィラデルフィアでは、まさに市民一人ひとりの自発性に、社会的諸制度の設置と運営が任される他なかった。それゆえ、ニューイングランド仕込みの宗教的かつ方法的生活姿勢を身につけたセルフメイド・マンが同志を募って共同体を整備していこうとするとき、フィラデルフィアは格好の舞台になり得たし、そこでフランクリンがなしとげた実績は、アメリカにおける国家建設のロールモデルになるはずである。アメリカとは巨大なフィラデルフィアなのかもしれない。

 宗教性を帯びるほど勤勉と節約に勤しむアントレプレナーが、都市の公共事業家となり、最後には国の命運を握る政治家になる。この過程を著者は時系列で解き明かすし、そのことが本書をリーダブルなものにしている。けれども、企業経営で成功を収めた(とされる)人物に国家の最高行政官をも担わせようとする政治文化に興味を覚える私としては、人びとの自発性なるものにどうして米国人はそこまで信頼を寄せることができるのか、著者にしかできないであろう宗教思想の観点からの説明を求めたかったのも事実である。本書で描かれるフランクリンであれば、「自発性に対する(ここでもマザー牧師由来のピューリタン的な)自己吟味を、方法的に行っているから心配ご無用ですよ」と答えそうであるが、それを聞いて安心できるわけではない時代に、世界も、そして何よりアメリカも置かれているのである。(たのうえ・まさなる=慶應義塾大学法学部教授・西欧政治思想史)
 
★うめつ・じゅんいち
=経済学博士・経済思想史。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得満期退学。青山学院大学教授、第一四代青山学院院長、キリスト教学校教育同盟理事長を歴任。著書に『ヴェーバーとピューリタニズム』など。一九四七年生。