はじめての西洋ジェンダー史 家族史からグローバル・ヒストリーまで
著 者:弓削尚子
出版社:山川出版社
ISBN13:978-4-634-64095-5

現在地を知る手がかり

「新しい歴史学」にジェンダー史がもたらしたもの

三浦麻美 / 東洋大学客員研究員・西洋史・ジェンダー史
週刊読書人2022年2月18日号


 歴史学はこれまで功績を残した女性も扱ってきたのに、なぜ新たに「ジェンダー史」が必要なのだろうか。しかし、女性の功績とは何だろう。例えば、女性の権利を唱えたウルストンクラフトとナポレオンの妻だったジョゼフィーヌ、どちらの功績が大きいのだろうか。二人はほぼ同時代人なのに、教科書はなぜ後者を重視するのだろう。これらはみな、ジェンダーに関わる疑問だ。

 定義としての「ジェンダー」は肉体的差異に意味を付与する知を指すが、その枠組は時代や地域で異なる。いわゆる「ジェンダー史」研究の多くは特定の地域に対象を絞り、そのジェンダー観が時間とともにどう変化したかを通史的に描くが、このような研究にわかりにくさが伴うのには理由がある。概念自体の変化に加え、読み進める中で、読者も自分がどのようなジェンダー観を抱いているのかを理解しなければならないからだ。自分の立ち位置を把握せずに、変化する概念と向き合うのは難しい。本書は一般的なものとは異なるアプローチを取り、ジェンダーにまつわる問題を歴史学研究がどのように扱い、考察を深めてきたのか、史学史をたどる中で読者自身が現在地を知る手がかりを与えてくれる。

 第一章から第七章は家族史、女性史、ジェンダー史、身体史、男性史、「新しい軍事史」、グローバル・ヒストリーをそれぞれ扱い、主な研究例は近世・近代、つまり大航海時代から帝国主義時代にかけての西洋を取り上げる。ヨーロッパが海を越えて世界各地に進出し、勢力圏を拡大した時期に、「○○らしさ」という理念がどのように創り上げられ、社会的に影響力を獲得したのかについて、著者は家族、女性性や男性性の変容、男女二元論、身体的性差の認識といったトピックから丁寧に読み解く。その中で示されるのは、歴史人口学に端を発する「新しい歴史学」がもたらした豊かな成果だ。人口動態を解明するために始まった家族の歴史への注目が「私的領域の歴史」を開拓し、そこに「ジェンダー」を用いることで女性や男女の多様な関係性が見いだされた。さらに、身体にもとづく男女の認識を探ると、一見すると普遍的な「科学的言説」が男性優位の価値観から生まれたことが明らかになってくる。この価値観は女性を劣った存在に置くだけではなく、男性を優れたものとして国民国家へ奉仕させ、軍事行動により徹底的に搾取した。このようにして、性別二元論にもとづく社会構造をもつ西洋の国家が世界の覇権を握り、植民地との関係をジェンダー秩序に例えて語り、正当化することで、同様のモデルは世界に輸出されていく。国家の拡大競争が終わり、西洋的価値観を絶対視しないグローバル・ヒストリーが登場した二一世紀になってようやく、非西洋が西洋へと向けるまなざしが可視化され、多様性が語られる環境が整ってきたといえよう。

 ここからは、西洋社会の転換点が一九世紀にあったこと、そこでは男性に公的、女性に私的領域を割り当てるジェンダー観が強固な基盤となって、社会秩序を維持してきた仕組みが見えてくる。これと同時代に成立した学問こそが近代歴史学であり、外交や戦争といったテーマを男性が論じることで社会に潜在する権力構造を強化し、性別役割分担の理念に権威を与えてきた。裏を返せば、一九世紀的な枠組と同時に近代歴史学が限界を迎え、「新しい歴史学」の試みとしてジェンダー史が登場したのは必然であり、単にフェミニズム運動による外圧が原因ではない。

 最後に、西洋近代のジェンダー秩序を脱構築する手がかりとして、著者は前近代の歴史研究に可能性を見いだす。確かに前近代は強固な身分制が存在し、男女の身体は「完全な男性」と「不完全な女性」というキリスト教的身体観に縛られていた。しかし、特に西洋中世については幻視や苦行を通じて女性が宗教的権威を帯び、このヒエラルキーを覆す事例の研究が国内外で進んでおり、さらなる展開のために新たな示唆ともなるだろう。(みうら・あさみ=東洋大学客員研究員・西洋史・ジェンダー史)

★ゆげ・なおこ
=早稲田大学法学学術院教授・ドイツ史・西洋ジェンダー史。編著書に『なぜジェンダー教育を大学でおこなうのか』など。