戦争論 私たちにとって戦いとは
著 者:マーガレット・マクミラン
出版社:えにし書房
ISBN13:978-4-86722-104-4

歴史への鋭い洞察と深い人間理解

狐のように多様で該博な知識を駆使しながら、ハリネズミのように戦争の本質に迫る

村田晃嗣 / 同志社大学教授・国際政治学
週刊読書人2022年2月18日号


 人類の歴史はすなわち、戦争の歴史であった。むしろ、平和は近代の産物である。にもかかわらず、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチが指摘するように、「戦争はいつも、人間の大きな謎の一つである」。不幸にして、人間は善良になるにつれて殺すこともうまくなり、大規模に殺すことができるようになるという、パラドックスを抱えている。だからこそ、戦争の研究には、歴史への鋭い洞察と深い人間理解が必要である。本書はまさにその好例であり、博覧強記の所産でもある。

『戦争論』というタイトルからは、誰もがまずカール・フォン・クラゼヴィッツの古典的な書物を想起しよう。だが、本書はクラウゼヴィッツのように軍事に特化した思弁的な書物ではない。戦争を考えるために、本書では古今東西の歴史や文学、映画、社会的事象が引証されている。巻末のビブリオグラフィーや索引からも、内容の豊かさがうかがい知れる。

 しかも、BBCラジオでの連続講義を基にしているから、万人に語りかけるような筆致である。古くは、E・H・カーの『新しい社会』(一九五一年)もBBCラジオの連続講演に基づいていた。本書の著者マーガレット・マクミランはオックスフォード大学で、そして、カーはケンブリッジ大学で研究に勤しんだ。二人とも、歴史学と国際関係論の架橋に大きく貢献している。

 本書は戦争の原因や歴史だけでなく、戦争を発展・変容させる技術や手段についても、鋭い分析を加えている。例えば、一九世紀末に無煙火薬が普及したために、戦場で視界がよくなり、敵と味方を区別するために将兵が美しい赤のコートや金モールを身につけなくてよくなった。否、むしろ、それでは敵の標的になる危険が増した。われわれが文学や映画で知る戦場の様子は、こうして変化していったのである。今や軍事技術の発展は、戦争のありかたを根本的に変えようとしている。例えば、蚊のような小型兵器を大量生産して、子供が一時的にできない薬を散布すれば、流血を見ずしてジェノサイド(集団殺害)が可能になると、拓殖大学教授の佐藤丙午氏は指摘している(『読売新聞』二〇二二年一月二三日)。

 マクミランはさらに、女性が戦争にどのように関与してきたか、一般市民が戦争とどのように向き合ってきたか、規範や法が戦争をどのように制御しようとしてきたか、そして、どのように戦争が想像され記憶されてきたかなど、実に多くの興味深いテーマに切り込んでいる。本書で文学や映画が多用される所以である。再び一例を引こう。第二次世界大戦中のナチス占領下でフランスがいかにドイツに協力したかを赤裸々に描いたドキュメンタリー映画が一九六九年に製作されると、シャルル・ドゴール大統領は国営テレビでの放映を禁じたという。「フランスには真実は要らない。要るのは希望だ」と、大統領はいかなる非難にも怯まなかった。

 かつてイギリスの哲学者アイザイヤ・バーリンは、ロシアの文豪レフ・トルストイの『戦争と平和』を論じて、ハリネズミと狐を対比した。「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という古代ギリシアの詩句から、芸術家や思想家を二つのタイプに類型したのである。前者は包括的で一元的、後者は個別的で多様な世界観を持つ。トルストイは戦争と平和の問題をハリネズミのように追求しようとしたが、その手法は狐のように多彩であったと、バーリンは説く。これに倣えば、マクミランは狐のように多様で該博な知識を駆使しながら、ハリネズミのように戦争の本質に迫っている。

 冒頭で引いたアレクシェーヴィッチは、『戦争は女の顔をしていない』(一九八五年)を著した。だが、マクミランは戦争の顔を見事に描き出している。女性の優れた歴史家が戦争を縦横無尽に論じる様は、『八月の砲声』(一九六二年)を草したアメリカの在野の歴史家バーバラ・タックマンを連想させる。(真壁広道訳)(むらた・こうじ=同志社大学教授・国際政治学)
 
★マーガレット・マクミラン
=オックスフォード大学国際関係史エメリタス・プロフェッサー、トロント大学教授。オックスフォード大学で博士号取得。著書に『ピースメイカーズ―1919年パリ講和会議の群像』など。